背後により大きい資本と結合して、出版企業体を組織し、株主や理事になって、利潤の分配に直接関係しはじめている人々は、作家といっても、それは例外である。職人が小金をためて、親方となり、小経営をもちはじめたような関係にある。
 文筆家が、自分たちのおかれている現実の社会関係を理解しはじめていることと、出版・印刷の労働組合が、人民大衆の社会的発言の形態としての出版の活動の真の意味を把握する歩調とがある程度そろったとき、日本の文化は、出版の刷新の可能から非常に大きい進歩をとげるだろうと期待される。
 出版・印刷の勤労者がただ煽ってケースの前で精力をしぼりつくしているとき、文筆家が、個人的に才能にたよったり、流行におもねったり、闇につられて文化性を喪失したりしている間は、物質と精神の暗黒は追い払えないと思う。
 文筆家の覚醒の一翼として、翻訳家の現実問題がおこって来ている。従来、日本では翻訳家の存在が比較的有利であった。特に、それぞれの外国語で権威といわれる立場にいて後輩をもち、学閥をもっていた人々にとって。日本の社会は封鎖されていて、外国語は特権階級の教養であった。したがって、外国文学または外国語で働く人は作家とはまたちがう一種の特別なものとしての自覚をもっていた。
 この節、翻訳権の問題があって、すべてのジャーナリストが困却しているとおり、すべての翻訳家・語学者は活動を閉鎖された形である。生活問題はこれらの人々を真剣にしている。そして、これまで文化の上に軍国主義的鎖国をうけて来た日本の精神を開放し、より人類的に、より民主的に豊にするために、この問題が最も聰明に解決されることを求めている。資本主義出版企業の矛盾の国際性について理解しはじめている。
 外国の教養、言葉の知識、したがっていくらか自分たちを日本人の平均より文化的に高いように思っていた人々の罪のない夢は、現実にうち当って砕ける。
 未来の社会に向って文化生産者であるという明白な自覚こそが文学でいえば作家に、ジャーナリズムに屈従した存在でない責任感と信念を与える。ただ、字を殖えている職工ではないのだ、という自覚が、市民権の一つの当然な発言として、労働者に闇紙と悪出版への批判を発言させるのは、ごく当然のことであろうと思う。最も進歩した良質の文化人は、今日、文化生産者としての社会的責任を自覚しはじめている。産別のうちで文化面に密接な勤労者が、自分たちの職場の機能を、最も自主的文化財として自覚することこそ自然な発展である。[#地付き]〔一九四七年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「評論」
   1947(昭和22)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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