、女としての彼女自身の身にもひきそえて、どこまで彼女は真摯に把握したろう。
 わたしは、帝劇の舞台に間近な補助椅子にかけていて、目をこらして、この貧寒なクライマックスを観た。そして、牢やの中のあばずれは、ともかく表現したこの女優が、この人間的飛躍のクライマックスでしめした日本式転身の姿に、うたれた。山口淑子の俳優としての非力は、はからずも日本のきょうの社会がまだもっている人間成長のための障害の条件そのものをむき出しているのだから。
 映画の製作過程と芝居とはちがう。カメラに向って、演出者は芝居においてより遙にこまめに女優を指導するのだろう。だから、マスクの特異さ、ある女としての持味だけでどしどし若い女が商品製造につかわれてもゆくのだろう。山口淑子が、ひとこま、ひとこまと場面場面をまとめるように熱演しながら、全部に流れつらぬく情熱を感じさせなかったことの一つの理由は、こういうところにもあるのかもしれない。[#地付き]〔一九四八年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行

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