供たちは母のまわりをはなれないようにしながら、その辺で遊んでおり、赤ちゃんを洋装の上におんぶした若い母が、集って何か笑っている。一年生の遠足でもあるのをそこで待ちあわせている姉や母たちというその場の空気である。牧子は、
「大分お集りだこと……」
小声になって、自分と子供はひろ子からはなれるようにした。
「わたしは、ただあなたにお目にかかりたくて来たんですから、皆さんとは別なんです。――お待ちしておりますわ」
「何にも大してむずかしい集りじゃないらしいことよ。かまわないじゃないの、いらっしゃいよ」
ひろ子は、きょうの女のひと達の集りは、これから何か仕事をしてゆく人々の顔あわせのような意味のものとして、重吉から伝えられていた。
「――石田さんでしょう?」
赤ちゃんおぶっている若いひとと話していた一人がひろ子によって来た。
「もう眼はよくおなりになったんですか」
ひろ子が熱射病で一時視力を失っていたことを知っていて、きいてくれる人があり、又逆にひろ子の方から、
「まあ、来ていたの」
と、足早によってゆく若い人々もあった。
服装がばらばらなとおり、めいめいの生活もめいめいの小道の上に営まれて来ているのだけれども、きょうは、そのめいめいが、どこかでつかまっていて離さなかった一本の綱を、公然と手繰《たぐ》りあってここに顔を合わせた、そういう、一種のつつましさと心はずみの混った雰囲気が材木置場のまわり、婦人たちの間にただよっていた。何かのはじまりという期待と、同時に見当のつかなさもその顔々にあって、それは、玄関口の敷居や階段につけられた土足のあとの一つ一つがまだ目新しい自立会の生活全体の新しさと、全く調和している。
日向をさけて、建物のひさしの下によって佇みながら、ひろ子は、この女のひとたちの集っている光景を美しいと思って眺めた。そこにはいろんな顔をした子供たちがいる。その母たち一つ一つの顔には生きて来た経歴が表情となって刻み出ており、しかも、このひとときの共通な信頼にくつろぎ、秋の日向にかたまっている。目に見えない旗日があった。ひろ子は、この広場の上を、いまおだやかにことなく過ぎてゆく時の流れの深みを、感動なしに感じることが出来なかった。
「どうしたんでしょう……もうそろそろ二時ですよ」
腕時計を見た一人がつぶやいた。集りは一時から開かれる予定であった。
「きいて来ましょうか」
建物の中へその人が入って行った。そして髯を生やした小柄な男と一緒に現れた。その髯をつけたひとは、ちょっと片手を腰に当てる恰好で、
「徳田さんは今地方から来た人と会議中ですから、それがすんだらすぐはじめます。すみませんがもう少し待って下さい」
もう一遍、
「会議がすめば、つづいてすぐやりますから」
とくりかえした。よく響く声のたちで、眼や額の皮膚は清げなそのひとが、どういうわけか小柄な体にすこしあかっぽい大髯をつけて、年のわからないような威風あたりを払っている様子にはユーモアがあった。拘置所では世間並に髪を生やしておくのにさえ蓄髪願という書類を出さなければならなかった。こんな大きい髯をもっているために、この同志はどんな書類を書き、人間は自分の髯については、それをのばしても刈っても自由な権利をもっているのだということについて、がんばって来たのだろう。人権に関する最初の戦利品というようなその髯をみて、ひろ子は微笑をおさえることが出来なかった。
髯の同志がきょうの世話役らしく、暫くすると階段の下から、
「みんな、集って下さい」
また響きのいい声で呼んだ。牧子と子供とが、どうしようかしら、という風にひろ子のわきに立って躊躇しているのに目をとめた。
「あなたも来て下さい。遠慮なんかいりゃしない」
一同は二階の一室の三方へ詰って坐った。建物のはずれの室で二方に大きい窓が開いた床の間つきの六畳であった。二三人の男のひとたちが、床の間のかまちに腰かけて、三尺の入口のふみこみのところだけ、すこしすきがのこされた。
「あ、ようござんす。それはまたそれで、あとからやりますから……」
ござんす、というところがいく分鼻にかかる訛《なま》りを響かせながら、坐っているみんなに挨拶するようにして徳田球一が入って来た。一方の窓を背にして置かれていた小机の前に坐った。
「どうも今日はお忙しいところをすみませんでした」
女のひとたちは、そろって行儀よくお辞儀をした。又そろって頭をあげて、黙ったまま眼にちからを入れた表情で、カーキ色の国防服めいたものを着ている、はげ上った、精悍《せいかん》な風貌を見つめた。
「わたしは、外国へやられたり、牢屋へ入ったりばかりしていて、これまでに結婚生活をしたのは、たった七ヵ月ぐらいのもんでした。だから、御婦人の生活をよく知っているとは云えないかもしれないが、見ていると、実に日本の婦人の生活は過労です。気の毒にたえないほど疲れはてた状態だと思うんだが、どうですか」
赤ちゃんを背中から膝の上にだきとり、さもなければ牧子のように一人わきに坐らせて、もう一人はおなかの中で今育てているというようなひとも幾人か加っている一同は、全く云われるとおりという面持で応えた。
「日本の男は婦人たちをもっと、しんから可愛がらなくちゃいかんと思うんです。婦人の生活が、もっと合理的になるように、過労しないですむように、大いに努力して、改善して行かなくちゃならない」
そして、日本の社会の歴史の中で婦人がおかれて来た事情と、民主主義というものの、三つの段階と、それぞれの段階での婦人の立場が説明された。
婦人ばかりがぎっしりつまった狭い室だが、開けはなされた二つの大窓から流通する光線と大気とは、すがすがしくて、秋の午後の清潔なぬくもりが室じゅうにとけている。窓からは遠く森や丘のつらなった外景と、その上の空が見えていて、風景は骨組の大きい一人物の肖像のバックをなした。深くはげ上ったかたい前頭。熱中して性急に話すにつれて、その主張をききての心の中へ刺しこもうとするように動き出す右の手と人さし指の独特な表情。引きしまって、ぼやついたところのない音声と、南方風なきれの大きい眦《まなじり》。話につれて閃く白眼。その顔のすべての曲線が勁《つよ》く、緊張していた。博い引例や、自在な諷刺で雄弁であり、折々非常に無邪気に破顔すると大きい口元はまきあがり、鼻柱もキューと弓なりに張っている。ひろ子は自分が美術家であったら、この、独特な、がっちりと動的に出来上った人物をどういう手法であらわすだろうと思った。一番ふさわしいのは、永年かかって、漆で塗りかためた乾漆であると思えた。顔全体が赧みがかった茶色で、眦を黒々と、白眼を冴えて鼻は大きく、そこにどんな雨がふりそそごうと、その雨は粒々になって鼻のさきや顎、額からころがりおちてしまって、ちっともしんはぬれもくさりもしない乾漆のつよさ。同時に、そとからの様々な意志に向っても屡々それをはじき返すだろうような一徹さ。それはだぶついていつも曖昧さを漂わせている日本の名士づらに鋭く対照する面構えである。
この指導者が、縦横無尽という風に、ときに悪態さえ交えながら、しかも、婦人たちの本能的なつつしみには自然のいたわりをもっていて、荒っぽく、しかも淡白な話ぶりをもっていることに、注意をひかれた。この人の悪口は、火の中から出したばっかりの鉄《かな》ごてのようだ。あつくて、ジリッとし、やけどをさせ、また消毒力ももっている。その味は、雨の滴もころがり落ちてしみこめない漆ぬりの風貌全体と、一致していた。
この人物をとり囲んで坐っている婦人たちは、何とぼんやりと軟かく、婦人たち、という一般性の中に自分たちの肉体と個性とをとかしこんでいるだろう。それにしても、一つ一つの顔は、人生の一つ一つを物語っており、婦人の様々な必要、希望、苦痛そのものの生きた姿として、そこにつめかけ坐っている。
「坊や、いい子でしょう、おとなに、お話きいてましょうね」
もじつく子供にそう云って、その小さい肩へ片手をかけて、母たちは熱心に傾聴している。自分で自分を解決してゆこうと欲している。そういう熱意があふれ感じられた。
ひろ子は、さっき建物のそとで待っているときにうけたと同じような感動を、一座の光景から感じた。婦人の集会でこれまでただ一度もこんなに公然と、しかも新しい社会の建設にともなう婦人の将来を話し合う場所はなかった。
説明が終ってから、婦人の側からの発言が求められた。一座をみわたせば、そこに坐っているほどの女のひとたちは、みんな十分会合に馴れていると思えた。落付きのいい坐り工合が、それを語っていた。しかし、自分から発言する人はいなかった。そこに、すべての婦人が苦しく、ちりぢりばらばらにさせられて凌いで来た十数年の月日がてりかえされた。中国地方から来ていた一人のひとが、その地方の婦人の事情を報告した。ひろ子が名ざされて、一九三二年から以後の婦人の生活や文化の状況を短くまとめて話した。居合わせている婦人たちは、ひろ子が知っているよりもっと細部についてわかっている。けれども、十八年、監獄におかれた人は、それについて知っていて知っていないだろう。ひろ子は、そのことをことわって簡単に話した。
段々座がくつろいで、いくつもの声が物を云いはじめた。二十歳をすこし出たばかりぐらいのふっくりとして愛らしい人と、速記をやってもう仕事をたすけている二十四五のひととが、臨時の書記にきめられた。数人のひとが、又この次日をきめて集るということになった。婦人に関係する綱領がつくられる仕事があった。
「長井さん、あなたが引こんでいるってことはないわ、出なさいよ」
「ええ。――そうも思うんだけれどもね、……」
かたまって話し合いながら階段をおりてゆく婦人たちは、主に、十月十日にかえった良人と一緒に、ここに住んでいる人たちであった。
会合がすむとすぐ下の炊事場で、これらの人たちが分担している活動がはじまった。台の下やその他の隅々はまだ真新しいコンクリート床で、みんながきまって盛に往来するところだけ泥あとのついた炊事場で、ポンプをくみ上げる音、薪をわる音がおこった。
夕闇の濃くなったそとへ出ようとする玄関口の受付に、電燈がともっていた。そこにかたまっている若い人々の群の中から、つとはなれて、ひろ子の前に来て立った人があった。その顔は笑っている。瞬間、とまどったひろ子は、目を据えてみて、
「まあ、ようこそ!」
覚えず片手をさし出した。太平洋戦争がはじまる前まで、新交響楽団の定期演奏会は前売切符を会員に送った。その時分にひろ子もよくききにゆき、山沼というその青年も、大抵ききに来ていた。音楽をきいた帰りに、お茶をのみに歩いたりしても、山沼は、或る種の若い人のするような話しぶりをせず、いつも落付いた科学者であった。山沼に会ったのは古くて、ひろ子の友達の長男と同級のよしみで、落ちあったのが縁であった。こういう青年も、今はこの場所に来ている。しかも、受付にかたまって、若い人々の中にいたときの空気でみれば、山沼はおそらく、ひろ子などよりはるかにここに近く暮しはじめている様子だった。
「何年ぶりでしょう。――お元気でいいわね」
「石田さん、体どうですか」
山沼は、やはり、もとの通りやさしく、しかし必要なことしか云わなかった。
「じゃあ、また」
「お元気で。よろしく」
ひろ子は、待っていた牧子と一緒になった。純吉は、暗いし眠いし歩けなくなって、牧子におんぶされている。
「失礼ですがあの方、よく御存じですか?」
しめりはじめた草むらが匂う道を歩きながら牧子がきいた。
「よくって云えるかどうかしらないけれど――なあぜ?」
「たしか、瀬川の御友達のかただったと思うんですけれど……わたしは御存じないんです」
きょうが目には見えない女と子供のひとつの旗日であったように、誰の目にも見えないカドリールの輪がある。そうひろ子は思った。古風なカドリールの音楽につれて、手から手へ繋がりあって、送られて、まわって、又新しい手に
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