思い出せもしなかった。思い出すのは、却って、省線の巣鴨駅に咲いていた萩の花枝である。省線の電車が、颯《さ》っと風をきって通過したとき、あおりで堤に咲きつらなっていた萩の花房が瞬間大ゆれに揺れて乱れた。病的になっていたひろ子の神経は、その萩の花の大きいゆれをわが魂の大ゆれのようにはっと感じた。自分の哭《な》こうとする心がそこにあらわされたように感じた。
 そういう夜と昼、ひろ子が臥《ね》て、起き出たのが、あの寝台であった。寝台をみると、乾きあがって、心のやり場もなかった四一年の夏がそこにまざまざと泛《うか》び上るのであった。
 寝台を買ったのは三五年の初夏であった。或る早朝、ひろ子がたった一人そのベッドに寝ていた二階の屏風越しに、ソフト帽の頭がのぞいた。それは、ひろ子をつれてゆくために、風呂場の戸をこじあけて侵入した特高の男であった。
 風知草の鉢は、ひろ子が友人にゆずって出たその家の物干で、すっかり乾からび、やがて棄てられたのだが、ひろ子の記憶に刻みつけられているもう一つの風知草があった。その風知草は、小ぢんまりした鉢植で、巣鴨の拘置所の女区第十房の窓の前におかれていた。出来るかぎりぴったりと窓に近づけて置いてあるのに、風知草の細い葉のさきさえも戦《そよ》がなかった。いつみても、どんなに待っていても、夜中でさえもその風知草の葉が動くということはなかった。夏は、六十八年ぶりという暑熱で、温室のように傾斜したガラス屋根の建物を蒸し、焙りこげつかせていたのに。――
 ひろ子は思い出にせき上げた。総て、すべてのこういうことを、どうして重吉に話しきれるだろう。重吉が帰って、こうして、ひろ子の息づきはゆるやかになり、自分を崩すまいとする緊張から解放されて、はじめて、自分のこれまでの辛さや、それに耐えている女がはために与えるこわらしさを見ることが出来た。ひろ子をよく知っていて、つき合いの間には入りくんだいきさつもあった或る作家が、短篇の中に気質のちがう姉妹を扱っていたことがあった。情感に生きる妹娘が所謂《いわゆる》身もちもいい、しっかりものの姉について「そりゃ姉さんは親類じゅうの褒めものなんだから」という意味を云うくだりがあった。第三者にはまるで、ひろ子にかかわりない一つの物語としてあらわされた会話であったが、ひろ子は、その作者がその作者のもちまえの声で、ひろ子に向って其を云っている響を感じたことがあった。そのとき、ひろ子は、その本を手にもって、永い間、その数行の文字を見つめていた。そのときひろ子の胸に湧いた云いつくせない感情は、口で話せるものだろうか。
 ひろ子は立ちあがって、書いている重吉の肩へ手をやった。
「――どうした」
「小説をかかして」
 ひろ子は重吉のあいている方の手をとった。
「ね、小説がかけるように働かして。――お願いだから……」
 亢奮《こうふん》しているひろ子の顔つきを見て、重吉はおかしみをこめた好意の笑顔になった。
「鎮まれ、しずまれ」
 ペンをもっている指先で、ひろ子のおでこをまじないのようにぐりぐりした。
「それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」
 その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集って、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった。

        五

 ひろ子は、行手の道の上にゆるやかな角度で視線をおとしながら歩いていた。おろしていくらもたたないのに、粗末な下駄は前がわれて、あぶなっかしかった。低い丘の起伏の間をぬっているその道は、土ほこりが深くてぽくぽくのなかにごろた石がどっさりころがっている。左手は、色づきはじめた灌木におおわれた浅い谷間になっていた。
 ひろ子の歩きつきに、何となしおとなしいような懇《ねんご》ろなような様子があるのは、下駄がわれかかっているからばかりではなかった。歩いているその道が、よその道路を通る事務的なこころもちとはちがった気持をひろ子にもたせていた。その気持は、ずっと昔、小石川のある道をあるくとき、ひろ子の気分に湧いたものと何処やら似ていた。その道に重吉が住んでいた。ひた向きにその一点しか目ざしていないのに、外からはどこへゆくか一応分らないようにして歩いている。おもしろいその気持に似たところがあり、しかも、この道の上では、おのずとべつのはにかみ[#「はにかみ」に傍点]もあった。その秋、自立会への道と云えば、普通の田舎道ではなかった。自立会を十月十日に解放された共産党員たちの住んでいるところと知っているほどの人々は、そこへゆく道、その道を行き交う人の通りに特別な思いをはらった。配給所へゆくのと同じ心でそこを通る人はなかった。よかれあしかれ、自分の生活と関係のある新しい動力の発源地をそこに感じ、そこの様子を知ろうとして、淋しいガード下から曲って丘をめぐるその一本道へ出た。そこを歩くひろ子は、あんまり行く先がはっきりしているのと、いそいそしている自分があらわなのとを、はにかんでいるのであった。
 行手の木立の間に、それらしい新しい建物が見えるところへ来た。すると、左手の草むらのうしろから、
「ひろ子さん」
 大きい声で呼ぶ女の声がした。ひろ子は、道の上に立ちどまって見まわした。
「ここです、お待ちしていたの、御弁当をたべながら――」
 あわてて立つ拍子にとりまとめた紙包を、まだ胸の前にたくしこみながら、小さい男の子をつれた瀬川牧子が、高い草の間から歩いて出て来た。
「まあ。――どうして? まち伏せ?」
 牧子は数年このかた埼玉の町に住んでいて、滅多に会うことも出来なかった。
「思いがけないところから現れたのねえ」
「よかったわ、うまくつかまえられて」
 上機嫌で牧子は男の児に、
「純ちゃん、これがおまく[#「おまく」に傍点]のおばちゃんよ、覚えている?」
と云った。三つぐらいの純吉が遊びに来たとき、ひろ子はその子と小さい枕をぶつけ合って遊んだ。それが大変気に入って、おまく[#「おまく」に傍点]のおばちゃんという名をもらったのであった。
「きょう、こちらへいらっしゃるとお友達から又聞きいたしましてね。お家までとてもゆけないし、こっちなら電車が国分寺まで来るから、思い切って出て来たの、よかったわ、お会い出来て」
 ほかに通る人のない道を、二人の女は五つの児の足幅にそって歩いて行った。
「元気らしいわね――」
 ひろ子は、牧子にはその意味のわかる笑いかたで、
「牧子さんだって、もう元気だわ。ねえ」
と云った。
 その初夏、空襲の間に会ったとき、牧子はやつれて不安な眼つきをしていた。埼玉でもその町は安全と云えず、食糧の事情もむずかしかった。牧子の不安は、そういう日常だのに、そこの会社づとめをしている瀬川泰二が、戦争も最後の段階にさしかかっていると云って、しきりに何か考え、牧子の知らない時間をよそで過して夜更けて帰るようになって来た。牧子は、
「もし又あんなことになったら、私たちの生活は今度こそどうなるのかしらと思って……」
 野良日にやけて、雀斑《そばかす》が見えるようになった顔を沈痛にふせた。
「瀬川はそれでいいかもしれないけれども――」
 瀬川夫婦の友人に玉井志朗という男があった。大学が同期で、学内運動の先頭に立っていた秀才であり、万事目に立つ男だったのが、つかまった。これ迄、何年間ものがれていたのが不思議であった。つかまって、拘置所に入れられて、少くとも五年か七年帰れまいと本人さえ云っていたのに、急に出た。その男の伯父が、前法相であった。入れかわりに、玉井のぐるりの友人は、一人のこさず被害をうけた。その前、一年半の実刑までを受けて出て来た瀬川は、ただ工場へつとめて、やっとヤスリを使い覚えたというばかりだのに、つかまえられたばかりか予防拘禁所に三年も置かれた。大した理由はなくてお気の毒だ、と云いながら、三年置いた。牧子は瀬川の母、その姉、良人とまるで立場のちがう妹夫婦という錯雑した家族の間で、子供を育てながら精一杯の努力でやりくりして、瀬川の出て来るのを待った。瀬川は、前の冬にかえって、埼玉のそこへ勤めはじめていたのであった。
 そのときも、ひろ子と牧子とは焼跡の通りを並んで歩きながら話していた。
「あなたの苦労は見ているから、いい加減が云えないわ。――でもね、牧子さん、どう? あのいい眼つきをした若い瀬川さんが、俺はもう女房孝行だけして子を育てることにきめたよと云って、段々張がなくなって、じじむさい男になって行くのをうれしがって見ていられること?」
 牧子は、
「――そうねえ」
 心から吐息《といき》をついた。瀬川の生きかたを理解し、瀬川の性格の美しさがわかっていても、くりかえし、くりかえし執拗に生活を破壊されることに牧子は殆ど耐えがたくなって来ていたのであった。
「年末になると、わたし段々おなかが重くなるし、そうすると又暫くお会い出来ないから、きょうこそと思って……」
 牧子は、いかにも心の祝いをあらわすように、
「これをおばちゃんに上げましょうね」
 袋のよこにさし出ていた白い小菊の花束をくれた。
「いいにおい。――うれしいわ、丁度石田がねているから」
「病気がおわるいの?」
「足なのよ。痛くて歩けなくなったの。たださえくたびれるのに、よく方角を間違えて、途方もなく歩いたりするんですもの」
 道が二股にわかれて、一方の草堤に自立会と明瞭に書いて矢じるしをつけた立札が立っていた。ひろ子たちの前の方を、背広の男が一人ゆっくり歩いていた。遠くからその立札に目をつけているのが、うしろつきでわかった。あの人も行くのかしら。そう思って見ていると、その男は立札のところで歩調をゆるめ、自立会という三つの字を改めてとっくりたしかめるように見て、それなり来た道をまっすぐ雑木林の方へおりて行った。
 太いタイアの跡が柔かい土にめりこんでついている。草道はそこから自立会の建物についてうねり、入口の前に通じた。
 建物の横手に大型トラックが来ていて、手拭で頭をくるりと包んだジャムパー姿の若い人が三四人で、トラックの上から床几《しょうぎ》をおろしているところであった。
 床几は、粗末ではあるがどれも真新しく木の香がした。真新しいのは、その床几ばかりでなかった。自立会という建物そのものが、出来たばかりというよりまだ半出来の真新しさで、広い畑から敷地を区切っているあらい竹垣のうちには、ついきのうまでこっぱ[#「こっぱ」に傍点]が散らばり、おが屑が匂っていたような様子がある。思想犯として刑期を終った出獄者を、そのあとまでもかためて住わせて思想善導をしようとして、本願寺が、この建物をこしらえた。国分寺の駅からよっぽど奥へ入った畑と丘の間の隔離された一郭として、これをこしらえた。十月十日、出獄した同志たちは、治安維持法撤廃によって解体する予防拘禁所から、すぐ生活に必要な寝具、日用品、食糧、家具などをトラックにつみこんで、ここへ引越して来た。
 重吉が網走からもってかえって来た人絹の古い風呂敷包みの中には、日の丸のついた石鹸バコ、ライオンはみがきの紙袋、よれよれになった鉄道地図、そして、一まとめに大事にくくった書類が入っていた。その束の中に、一通の電報があった。デタラスグカエレイエノヨウイモアル。同志二人の連名である。丁寧にたたんで使いのこりの封緘《ふうかん》の間にはさまれているその電報を見たとき、ひろ子は、それを監獄で読んだときの重吉の思いを、そのまま、わが胸に感じた。網走へ。宮城へ。この電報はうたれた。その「イエ」は、この自立会のことであった。
 壁が乾きたての小アパートという風なその二階建の建物は、ひろい農地のまんなかにポツンとたって秋日和に照らされている。門と玄関口との間が広場で、その一方に足場をほぐした丸太や板がつみ重ねてあった。それによりかかったりして、十五六人の女のひとたちがかたまっていた。まちまちの服装で、だれもかれも大きい袋持参で子供づれのひとも多い。子
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