重吉の膝を撫でた。
「一日じゅう、あんないやな気持で仕事していらしたの、わるかったわねえ」
「そうでもないさ」
 率直に重吉は云った。
「家の近くへ来るにつれて、だんだんいやな気持になったんだ」
「そりゃそうね、ああ思えば、もう本質的に家なんてどこにもないんですもの」
 うちがない、ということは、ひろ子にどっさりのことを思わせた。十月十日に解放された重吉の同志たちの主だった人々は、殆どみんな妻をもたず、従ってうちをもっていなかった。うちも妻も、闘争の永い過程にいろいろな形でこわされ、とられた。人間らしさを極限まではぎとられた。その痛苦から屈従させようと試みられた。ひろ子にしろ、つかまる度に、女の看守長にまで云われることは、重吉の妻になっているな、ということだった。一層軟かく重吉の膝に頭を埋めながら、ひろ子は、
「げんまん」
 重吉に向って小指をさし出した。
「二度ともう憎らしいことは云わないから、あなたも約束して。さっきのようなことは云いっこなし」
 自分たちの生活を毒し、あわよくば其をこわす力は、決して無くなっていない。ひろ子は身をひきしめてそのことを思った。正面から攻撃しなくなった
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