重吉は、いくらか促すように、
「――今、みんなの経歴をあつめているんだ」
と云った。
「――仕事、どういう風になるのかしら。それが分らなくて」
 ひろ子が短い啓蒙的なものをかくたびに、重吉は、仕事を整理しろ、と云っていた。そんなことで、いつ小説が書けるか、と云っていた。文化の各方面で、それぞれ本当の専門家が生れなければならないことは痛感されていた。昔のプロレタリア文化運動とそれにしたがった人々の仕事ぶりの推移をみれば、それはすべての人に肯《うなず》ける必要なのであった。小説はいつ書くのか、と、とがめるように云う時さえある重吉の考えは、経歴書とどういう角度で結び合わされているのだろう。拒絶する理由はどこにもなかった。それはひろ子にとって、ひろ子が石田の妻であることに等しく自然な本質に立っている。が……
「今すぐ書けなければ、あとでもいいんだ」
 そこへ、又見知らない黒外套の人が戻って来た。ひろ子は、十分話し合えず、すまない、いやな心持でその話はうち切った。

 八時すぎて夕飯が終ったとき、ひろ子から再びその話をとりあげた。
「きょう、もしかしたら、あれを書くようにと思っておよびになったの?」
「そういうわけでもなかった。――どうせ来たんだからと思っただけさ」
 ひろ子は、洗いものはあとまわしにして、昼間自分の心に湧いた躊躇について説明した。
「仕事のことが、その点ではっきりわかれば、わたしは勿論いやというわけはないんです」
「そんなことは、ひろ子自身の仕事ぶりで、何が一番適当したことか客観的に証明してゆけばいいんだ」
「そういう風にやって行っていいなら、ほんとに、うれしいわ」
「だってそれが当然だろう」
「そうだと思うわ。でもね、それが当然だと思われているときいたら、どんなにいろんな人がよろこぶかわからないと思ってよ――何となしに心配していると思うわ。場ちがいのことで、自分の専門が、分らないようになるんじゃないかと心配している人が少くないんだと思うんです……」
 重吉は、自身が文学の仕事から政治の分野に移って行った時代の、非合法の激しい日々を深く思いかえす風だった。
「もとの弾圧や苦労がひどすぎたから、今でもまだおじけづいているところもあるんだね」
「その点だけを一方的に誇張して知ったかぶりをするのが見識だと思っている妙な連中もあるし……治安維持法というものがなかったみたいに云う人があるわ。それがどんなことをやったから、ああなったのか考える必要もないみたいにいう人もあるわ」
 しばらく黙っていて、重吉は、
「だが、いまの、一番ふさわしい仕事をしていい、ということは、作家なら作家としての日常に、歴史的な責任を求めないということじゃあないんだよ」
 ひろ子の理解を補おうとするようにつけ加えた。
「それは、わかるわ。求められるというわけのことじゃないんですもの、土台――自分が求めて、その門に到った、ということなんだもの……」
「文化関係の人は概してこだわるね」
 ひろ子の場合をこめて、更にひろ子の知らない、いくつかの例を、心のうちで調べるように重吉が云った。
「――やっぱり生活や仕事のやりかたが個人的なせいかしれないね。……夫婦なんかの場合、ギャップはうめられなくなるからね」
 最後のひとことを、ひろ子は瞳を大きくしてきいた。重吉がそれを云ったということではなく、一番しまいに、ひろ子が自分で自分のこころもちをきめたのち、はじめて重吉はそれを云った。そのことが、ひろ子のきもに銘じたのであった。

 十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編輯局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
 いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
 木枯《こがらし》の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。小林多喜二が命を失ったときの顔が大うつしにされたとき、ひろ子は総毛だって涙をためた。ひろ子は、この顔を自分の眼で見た。小林のおかあさんは、この息子の顔の上に身をなげふせて、優しく優しくこめかみの傷を撫でながら、どんなに泣いたろう。あんちゃん、どげにきつかったろうなあ、そう云って撫でては泣いた。
 その治安維持法によって獄につながれている人々の、生活ぶりが、薄暗いのぞき穴をとおし
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