動小屋だったのを、学校に直したというその建物は荒れていた。二階の壁の上塗りははげ落ち、きずだらけで随分きたなかった。妙な建てかたで、数の少い外窓の内側が窮屈な廊下になっていて、その中に広間があった。階段口の右手に、狭い小室が一つある。
 ひろ子は、荒れてきたない廊下のところに立って、重吉はどこにいるかしら、と思った。建物じゅうにまだ人はごく少ししかいないらしかった。永い間人気なく、しめこまれていた埃と湿気のにおう広間の一隅で、その日の午後から開かれる解放運動犠牲者追悼会のために、演壇に下げる下げビラを書いている人たちが四五人働いているかぎりだった。重吉はそこには見当らなかった。すると、階下から二人づれの若い男が、足音を揃えるように登って来て、ひろ子を一寸見て、わきを通りぬけ、右手つき当りのドアの中へ入った。そこには人がいるらしい。しかし、ひろ子は、どうしても、ずけずけ入って行って、内部を知らない室のドアをあける気がしなかった。
 ひろ子が小さかったとき、建築家であった父が、八重洲町の古い煉瓦のビルディングの中に事務所をもっていた。その事務所を、ひろ子はどんなに尊敬し、憧れ、好奇心を動かされたろう。ジリンと入口のベルを手前にひっぱって鳴らすと、爺さんの小使いが出て来た。そして、父のデスクのわきに案内された。事務所は、どこもアラビア糊のような匂いがした。ひろ子は父にことわり、その許しが出ないと、半地下室で青写真が水槽に浮いている素晴らしいみものさえ、勝手に見にはゆかなかった。
 日本ではじめての日の目を見るようになった赤旗編輯局のきたない壁も、古くさくてごたついた間どりも、埃くささも、ひろ子の心にとっては、昔父の事務所で感じたこころもちに似た思いを誘うのであった。ひろ子は、感動のあふれた、子供っぽい顔をして、廊下に立ったままでいた。
 廊下のつき当りが、どこかへ曲っているらしく、そっちから不意に重吉が出て来た。ひろ子は、思わずよって行った。そして、
「きたないけれど――いいわ」
と云った。重吉は笑った。
「こっちへ来るといい」
 つき当りのドアの中は、この建物全体と同じようにまだがらんとしていた。むき出しの床に、粗末な板テーブルと床几とが二列ほどに置かれていた。一方の床几に見知らない人が黒い外套の襟の上から、やせたボンノクボを見せてあちら向きにかけていた。つき当りの板テーブルに、重吉よりはおくれて宮城から出獄した仲間の一人がいた。公判廷でみたときよりももっとやせて、一層角のついた正八角形という顔の感じである。ひろ子は、その手を執って挨拶した。さっきの男二人は、入れちがいに出てゆき、重吉が、
「弁当もって来たかい」
ときいた。
「御一緒にたべたら?」
「僕はあるんです」
 そのひとは、握り飯を出した。重吉とひろ子は弁当箱をあけ、鰯《いわし》のやいたのを三人でわけて板テーブルの上で食事をはじめた。まだ湯をわかす設備もなかった。
 そして、食べているところへ、一人新聞記者が入って来た。その記者は重吉とうち合わせてあった用向きについて事務的に話してから、煙草に火をつけ、世間話をはじめた。
「この間うちから僕は徳田さんにも会ったし、志賀さんにも会えたんですが、袴田里見さんていうのは、一体どんな人です? どうにも会えないで残念なんだが」
 ひろ子は、ひどく面白がった眼つきで重吉を見た。重吉はおかしそうに笑っていたが、一寸となりを見てから、
「すぐ近くにいますよ」
と云った。
「え? じゃきょう会えますね」
「ここにいるのが、同志袴田です」
 記者の真向いで鰯をかじっていたひとが、
「やあ」
と、笑い出した。
「どうも――これは……」
 記者は、今更床几から立上るのも不自然で間誤付きながら、片脚をそろりと床几の下へかくすようにした。
「ほかの政党だと、幹部連のえばりかたがちがうから、どこにいたって入ってさえ行けば一目でわかるんですが、どうも共産党の人は……失礼しました」
 名刺を出して、頭を下げた。
 格別用談もなくてその記者が去り、やがて黒外套の見知らない人も出て行った。二人きりになったとき、重吉が、出ていたノートを書類鞄にしまいながら、
「ひろ子、来たついでに経歴書、出してゆくか」
と云った。
「経歴書って――」
 突然な気がして、ひろ子は躊躇した。経歴書を出すということは、正式に組織上の手続きをするという意味であろう。
「それは、わたしとしては当然なことだけれど……」
 ひろ子には、今、直ぐ、ここで、という用意がなかった。二つの仕事が両側から一時に迫って感じられた。文学の仕事と、ひろ子が女であるということから自然おこって来る婦人関係の仕事と。その頃、ひろ子には、あとの方の用事が多かった。書くものも、所謂啓蒙風のものばかりの結果になっていた
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