あわせ》の着物と羽織とをきて、帽子のないいが栗頭に、前年の冬はいていたひろ子の手縫いの草色足袋をはき、外食券食堂で買った飯を新聞紙にぶちまけたのをたべたべ、重吉は一人で網走から東京まで帰って来た。同じ東北本線を、重吉は四ヵ月前、北海道弁の二人の看守の間にはさまれ、手錠をかけられ、青い作業服、地下足袋に、自分のトランクを背負って北へ向って行った。空腹で、看守がくれる煎大豆をたべて、水をのんだための下痢に苦しみながら手錠ははずされずに行った。十月十四日、十二年ぶりに東京の街をひとりで歩くことになった重吉は、一面の焼原で迷い、ひろ子が住んでいる弟の家のぐるりを二時間も迷ってやっと玄関に辿りついた。その朝、重吉は上野へついて真直に、昔、自分とひろ子とがはじめて一緒に暮した小さな二階家があった町の方角へと歩いた。二階家は上野から来て坂の上にある国民学校の建物が目じるしであった。出迎えに会えなかったその朝、自分のうちへ、ひろ子のいるところへ帰るという重吉の感情の中心に、くっきり浮んだのが小さい昔の家の入口の情景であったということを、ひろ子は感動なしに聴けなかった。
たった二ヵ月足らずを二人で暮したその家から、十二年の間に一人でひろ子が移った家は、幾軒あったろう。移るたびに、ひろ子は細かく周囲の風景も描き、間どりを話し、スケッチの絵ハガキさえ重吉に送った。それらをみんな重吉はよく知っている筈であった。勿論、今、ひろ子が住んでいる弟の家も。町名、番地、隣組番号さえ重吉は知っている。その家に両親が暮していたとき、重吉も来たことさえある。だが、焼野原となった東京で、かえって来た重吉の心に、めじるしとして感じられたのは、昔の二階家であった。その家は、ひろ子の弟の家の北側が垣根一重のところまで焼けたとき、焼けて跡かた無くなっていた。
自由になって、まだ十日余りしかたたない重吉のとりなし万端に、ひろ子のこころを動かしてやまないものがあった。
十四日の朝、二人がやっと口をきけるようになったとき、重吉はひろ子に、
「どうだろう」
と相談した。
「みんなに一応挨拶した方がいいだろう?」
その一つの家に、焼け出された知人の一家をはじめ三家族が暮していた。その知人と、裏の美術家が、十三日の夜十二時頃まで上野駅の出口の改札に立って、もしか重吉が来るかと待っていたひろ子の道づれをしてくれたりした。
「それは、その方がいいわ」
「紹介しておくれ」
玄関わきの客室に、知人一家は暮している。ひろ子は、そこへ行って、
「昨晩はありがとうございました」
と云った。
「あんなにしてわざわざ来て頂いたりしたときには来なくて、わたしが待ちくたびれて腰ぬけになったら、かえって。――石田です」
うしろに立っていた重吉を紹介した。重吉は、まだ帰って来た時のままのなりで、嵩《かさ》だかにそこの畳へ手をついて挨拶をした。
「石田です。――どうも永い留守の間はいろいろお世話様になりました」
それは決して、ただ時間の上で永い留守をしていたという挨拶ではなかった。二度と還ることはなかったかもしれなかった者、生活の外におかれていたものが、今帰った、良人として妻のところへ、社会生活のごたごたの中へ戻って来た、その挨拶であった。戦争の中から、妻のところへ生きてかえることの出来た男たちも、何人か、こういう挨拶のしかたをしたことだろう。わきに膝をついて重吉の挨拶を見ていたひろ子は、のどにせきあげて来て、やっときこえるような声で、
「じゃ、また、のちほど、ね」
重吉を立たせた。二つの手を独房の畳の上へは決してつかなかった重吉。そのために、例外のようにひどい判決をうけた重吉。その重吉が、急に世間並のしきたりの中に戻って来て、それをこんなに素直にうけとり、世話になるより、世話になられているという関係の知人にまで真心をもって、不器用に挨拶している。人の一生のうちにざらにある瞬間として感じてすぎることはひろ子にとっては不可能であった。
今、吉岡が、じゃあ拝見しましょうか、と云ったとき、重吉はいきなり背広の上着をぬいでしまった。それも、重吉がただ熱心に診て貰おうと思っていたからのこと。それだけに重吉のいくらかとんちんかんなその動作のこころを解釈するこころもちがしなかった。
吉岡純介は、重吉というよりは寧ろひろ子の親友の一人であった。結核専門で、そのためにひろ子は何度も重吉の体について相談して来た。一九四二年の夏、東京は六十八年ぶりとかの酷暑であった。前年の十二月九日、真珠湾攻撃の翌朝、そういう戦争に協力することを欲していない者と見られていた数百人の人々の一人として、ひろ子も捕えられ、珍しい暑い夏を、巣鴨の拘置所で暮した。皮膚の弱いひろ子は、全く通風のない、びっしょり汗にぬれた肌も浴衣もかわくというこ
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