とのない監房の生活で、毛穴一つ一つに、こまかい赤い汗もが出来た。医者は、その汗もに歯みがき粉をつけておけと、云った。しまいに掌、足のうら、唇のまわりだけのこして、全身がゆで小豆の中におっこちた人形のようになった。そして、監房の中で昏倒《こんとう》し、昏睡状態で家へ運ばれた。
 二日ほどして意識が恢復しはじめた。最初の短い覚醒の瞬間、ひろ子は奇体な、うれしいものを見た。それは、自分に向って心から笑っている吉岡の顔であった。吉岡が、特徴的に太い眉根をうごかして、浅黒い顔に白い歯を見せて笑いかけている。その顔が、丁度アヒルの卵ぐらいの大さに見えた。そんなに小さく、そんなに遠いところにあるのに、それは吉岡にまがうかたなく、実に鮮明に、美しく見えた。ひろ子は、うれしさに声をたてて笑った。拘置所の中で段々足もとがふらつき、耳が苦しく遠くなって来たとき、ひろ子はどんなに、ここに吉岡さえ来てくれたら、と思ったろう。その吉岡の顔が見えた。ほんとうにうれしい。――だが――再びくらくなる意識のうす明りの中で、ひろ子は全力をつくして考えた。――これは夢だ。どうせ夢にきまっている。うれしがったりしてはいけない。吉岡さんなんかいる筈はないんだもの……。
 そこからどの位時間が経ったのか、二度目にまた吉岡の顔が見えた。そのときは、もうあたりまえの大さになっていた。そして、
「どうです、吉岡ですよ。わかりますか」
 そういう声もきこえた。眼の水晶体が熱と血液の毒素のためにむくんで、ひどく凸レンズになっていたために、そんなに吉岡の顔も小さく見えたのであった。
 ひろ子は、死んだ自分が又生きられたことを、吉岡の骨折りときりはなして考えることが出来なかった。重吉はそのいきさつを知っていた。重吉の病気を吉岡に診せたがっているひろ子の気持も度々つたえられていた。
 十月十四日に帰って来たとき、重吉は決して健康人の顔色でなかった。それでも、昼飯をたべると、すぐ迎えに来ていた友人たちと遠い郊外へ出かけた。そこでは、もう活動が準備されていた。夕方おそくなって、そして、又道を間違えてひどく迷って疲れて帰って来た重吉に、ひろ子は、
「健康診断しましょうよ、ね。健康診断をちゃんとしなければ絶対に駄目よ」
 心痛に眉をよせて力説した。
「吉岡さんに診て貰いましょう。それからでなくちゃ、わたしたち、どう暮したらいいのか分らないみたいで……わかるでしょう?」
「そうしよう」
 それにつけても思いおこすという風で重吉は、
「――木暮の奴……」
と云った。木暮は、一九四四年頃どこかの刑務所から転任して巣鴨へ来た監獄医であった。病監での日常事で意見が衝突した重吉について、精神異状者という書類を裁判所へ出した。
「わたしはね、こんどこそ、本当にあなたを生かしたいと思って診てくれる人に診せたいの、いいでしょう?」
 十二年の間、重吉は彼を積極的に生かそうとする意志が一つもない環境の中で、猩紅熱《しょうこうねつ》から腸結核、チフスと患って、死と抵抗して来た。今度は、どうだろう、と、重吉の無言の格闘を遠まきに見まもられている裡で、死なずに生きて出て来た。吉岡に診ましょうと云われて、いきなり上着をぬいだ重吉が、ひろ子には犇々《ひしひし》とわかった。重吉はかえって来てから、自分が感じている善戦し責任を果した満足と歓喜とを、彼におとらない程度まで実感し、慶賀にみたされているいくつかの心があることを日ごとに発見しつつある。それは妻であるひろ子ばかりのことではなかった。歴史の野蛮な留金がはずされて、くりひろげられた世代の欲求のうちに、重吉の感じる共感が響いているのであった。あるときに、ひろ子を殆ど涙ぐませるのは、その共感に応える重吉の態度の諄朴《じゅんぼく》さと、普通にない世馴れなさであった。重吉の挙止には、ひそめられている限りない歓喜と初々しさと、万事につき、見当のつかないところがまじりあっていた。それらすべては青年から壮年へと送られた重吉の獄中の十二年が、彼の人間らしい瑞々《みずみず》しさにとって、どんなに乾いたものであり、胃袋と同じくいつもひもじいものであったかを知らした。しかも、重吉はそれらについては何とも自分から話さない。十月十日に府中刑務所から解放された重吉の同志たちが、すぐ郊外に集団生活をはじめていた。そこへ重吉につれられて行って、ひろ子は、昔会ったことのあった婦人活動家の一人にめぐり会った。そのひとから獄中で死んだ幾人かの人々の話をきいた。宮城刑務所にいた市川正一が、すっかり歯をわるくしたのに治療をうけられず、麦飯を指でこねつぶして食べていた。そうして生きようと努力していた。が、最後には僅か九貫目の体重になって死んだ。戸坂潤は、栄養失調から全身|疥癬《かいせん》に苦しめられて命をおとした。ひろ
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