子は、これらの話をきいたとき泣いた。重吉と自分とに与えられた愉悦に対して謙遜になった。これらの人々はどんなに生きたかったであろうか、と。
 ひろ子は、実験用テーブルの前の円椅子から立ち上った。水道のところへ行って、自分たちの使った茶のみと、そこに漬けてあった二つ三つの皿小鉢を洗った。わきの窓から、建物だけ出来てまだ内部設備がされていない別の一棟が眺められた。その棟の空虚な窓々は、秋の午後に寂しく見えた。
 ――しかし、思えば、感動深く厳粛なこのたびの治安維持法の撤廃と思想犯の解放につれても、故意か偶然か、ひろ子などには判断のつかない混同が行われていた。今度出獄したすべてのものが治安維持法の尊敬すべき犠牲者、英雄のように新聞やラジオで語り、語られているのであったが、その中に、元来が積極的な戦争強行論者で、その点が当時として反政府的であったために拘禁されていたというような人物までがまじっていた。その男が多弁に「民主的」に、権力を非難し野蛮なる法律を攻撃しているのであった。

 話しながら廊下をこちらへ来る吉岡の声がした。重吉が、手さぐりで結んだネクタイを横っちょに曲げた明るい顔でドアをあけた。
「いかが?」
「案外だった」
「そんなによくなっていたの?」
「いい塩梅に病竈《びょうそう》がどれも小さかったんですね」
 吉岡が煙草に火をつけながら云った。
「大体みんなかたまっていますよ。この分なら、無理さえしなければ大丈夫と云えますね」
「石田に無理さえしなけりゃと、云うのが抑々《そもそも》無理らしいわ。――でも、よかったことねえ。ありがとう」
 ひろ子は、椅子の背にかかっていた上着をとって重吉にきいた。
「お着にならないの?」
「もう一遍行くんだ――そうでしょう?」
「肺尖のところが、どうもよく見えなかったんです、丁度鎖骨の下だもんだから。ついでに、見直しておいた方がいいでしょう。血管がそこでいくらか太くなっているから、先の方に全然何もないって筈はないんですがね」
 肺尖のところは、二度目にも骨に遮られてよく映らなかった。吉岡は、
「石田さんは、自分の体についちゃもう専門家なわけだから大丈夫でしょうが、何しろ、ちゃんと証人が立っているんですからね」
 肺尖部の血管のふくれが何を意味し、何を警告しているかを説明した。そして、
「まあ三月に一度は必ずしらべられるんですな」
と命じた。

        二

 秋の夕暮のかすかな靄《もや》が立ちのぼりはじめた雑木林の間の小径《こみち》を、重吉とひろ子とは駅まで歩いた。どっちからともなく手をつなぎあって、ゆっくりと歩いた。
「お疲れにならない?」
「そうでもないよ」
「来てよかったわねえ」
「見当がついたからね」
 乗りものの様子がわからなかったりするからばかりでなく、ひろ子は重吉が帰ってから、出かけるときは大抵一緒に出た。研究所へ来る郊外電車は、時間のせいか思ったよりすいていて重吉は吊革につかまりながら窓外を駛《はし》りすぎる森や畑の景色を飽きずにじっと眺めていた。何の拘束もうけず、どこへでも歩き、そうして田舎の景色の間を進み、ひろ子もついてそこに来ている。このあたりまえさが、自分たちにとってあたりまえなことになったという異常なめずらしさ。来る電車の中で、ひろびろとした田野の眺望の間を駛りながら、この感じがつよく重吉の胸に湧いたらしかった。重吉は、あたりにのり合わせている人々の視線を心づかないように並んで立っていたひろ子の肩に手をおいた。そして低い声で、
「あるくのも、一緒でいいねえ」
と云った。ひろ子は、微に上気して重吉を見た。重吉は、あたりの乗客たちを全く見ていなかった。しかし、ひろ子を見ているのでもなかった。視線は窓の外を駛りすぎる外景に吸いよせられている。重吉の手と重吉の声とは、もしかしたら重吉が心づかないうちに、こうして生活はとりかえされた、という抑えがたい感銘を表現したのかもしれなかった。
 夕闇の林間道をあるきながら、重吉は、
「今ごろ、電車、どうだろう」
と云った。
「こみかた?」
「来たとき位ならいいね」
「ひどいと思うわ、時間がよくないんですもの」
 その駅にどっさりの乗客が待っているというのではなかったが、灯をつけて走って来た電車は満員だった。
「どうなさる?」
 列に立っている重吉の背中を押すようにしながらひろ子があわてて相談した。
「おいや? あとだと、一時間待つのよ」
 重吉は、黙って一寸|躊躇《ちゅうちょ》した。
「のってしまいましょう、あんまりおそくなるわ」
 そう云いながら、ひろ子は自分の体ごと重吉を車内におしこんだ。重吉は、ほかの乗客の足をふむまいとして無理な姿勢で立って、発車するとき、ひどくよろけた。こむ乗物の中で、粗暴な群集にも乗ものそのものにもま
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