、やかんを電気コンロにかけた。一室に、生活にも必要なすべてがそろっている化学実験室のつくりは、ひろ子の興味をそそった。ひろ子は実験用テーブルをぐるりとまわって、仔細に千差万別の形をし、はり紙をつけられ、一見無雑作に、しかも極めて意味のある秩序をもって整理されている瓶《びん》や試験管の林立を眺めた。
 重吉は、そうやって大テーブルのまわりを珍しそうにまわっているひろ子につれて、視線をうつした。そして、ひろ子がひとまわりして、もとの円い木椅子に戻って来たとき、重吉は、
「二人でいると、ちっとも退屈じゃないねえ」
 そう云った。
 ひろ子は、重吉の顔を見た。重吉の眼は柔かく、睫毛《まつげ》に美しいかげりがある。ひろ子は、思わずまだ立ったままでいた自分の位置で借り着の重吉の大きい肩に手をおいた。重吉が感じたままを云った素朴な表現は、今二人でこうしていると何とはなしのたのしさにつれ、彼の十二年の獄中生活はどんなに単調な、変化のない時間の連続であったかということを、まざまざとひろ子に告げたのであった。
「でも不思議ねえ、わたしたち一人で暮していなけりゃならなかったとき、退屈だとは思ってなかったでしょう」
「そりゃそうだ」
「わたしなんか寂しいということさえよくわからなかったぐらいだったわ」
 ひろ子の眼の裡を深く眺めて、やがて重吉が何か云おうとしたとき、
「やあ、どうも大変失礼しました」
 眉根の太い、小柄な吉岡が戻って来た。
「ここで養成された看護婦さんの巣立ちだもんだから、どうも手間どって」
 実験用テーブルの上の、つつましいピクニックのあとを見まわした。
「いもはどうでした。案外うまかったでしょう?」
「あまくて珍しかったですよ」
「そりゃよかった、あれは我々の農園産ですよ、職員がみんなで作ったんです」
 戦争が進んで、研究所員の生活不安がつのって来たとき、研究を継続するためにも吉岡たちが先頭にたって、広大な敷地のなかに農園をはじめたのであった。
「――よかったら拝見しましょうか」
「ええ」
 重吉は椅子から立ち上った。そして、すぐその場で背広の上着をぬいでしまった。
「診察はあっちなんじゃないのかしら――」
「ええ。レントゲンがあっちだから……」
「別の部屋へいらっしゃるのよ。――どうなさる?」
 ひろ子は重吉を見あげた。
「わたしも行きましょうか」
「いいよ、いいよ」
 気まりわるいような表情で、重吉はことわった。
「大丈夫さ、来なくたって……」
 重吉のことわる気分は、ひろ子につたわった。重吉は、自分の病気について、九年の間、只の一度も信頼出来る診断というものをうけることが出来なかった。刑務所の医者は、思想犯の患者を診るときには、その前にきまって附添の看守に向って念を押した。「どうだ、これは転向しているかね」と。だから重吉は、自分の努力で病勢を納めて来ているものの、本当には拘置所で患《わずら》うようになった結核がどの程度のものなのか、正確に知らないも同然であった。もし余りよくなかったとき、いきなりその場でひろ子までを切なくさせたくない。ひとりでにその不安から重吉はことわるのだろう。
「じゃ、ここで待っているわ、どうぞごゆっくり」
 小柄な吉岡が、白い診察着の裾をひらひらさせ、スリッパアをならして長い廊下を出て行った。早でまわしに上着をぬいでいた重吉が、いくらか靴を曳き気味に、大きい、ゆっくりした歩調でそのわきを行く。
 ひろ子は、研究所の長廊下を段々遠ざかってゆく重吉の後をドアの前に佇んで永いこと見送っていた。
 重吉の、あの歩きつき。一歩一歩とゆっくり大きく、いくらか体を左右にゆする歩きつき。肩がゆすれるのは重吉だけの癖であった。けれども、ああいう足の運びかた、それはすべての独居囚がもっている歩きつきと云えた。日ごろ、足元の軽いひろ子でさえ、編笠をかぶり、編笠の内側に出ている編めのジャカ、ジャカに髪の根を気持わるくひきつられながら、女看守につきそわれて歩いたときは、やっぱりああいう工合に、のろく、重く、一歩一歩と歩いた。編笠が視線を遮って、うるさく陰気だからばかりではない。彼等がそういう歩きつきになるのは出来るだけ長く監房の外に出ている時間をもちたいという、我知らぬ渇望からであった。きまった通路を、きまった場所へ、きまった目的のために、きまった時間内にしか歩かせられない。一本の通路の、どっち側を歩くかということさえ歩く人間の気まかせにはさせられない歩行の間、特に独房にいるものは、自分の一歩、一歩を体じゅうで味い、歩くという珍しい大きい変化を神経の隅々にまで感受しようとする。本人たちが自覚しているよりも深いその欲望から、彼等はみんな外の世界にない独特ののろく重い足どりになって来るのであった。
 あの歩きつきで、細かい紺絣の袷《
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