ことはないわ、出なさいよ」
「ええ。――そうも思うんだけれどもね、……」
 かたまって話し合いながら階段をおりてゆく婦人たちは、主に、十月十日にかえった良人と一緒に、ここに住んでいる人たちであった。
 会合がすむとすぐ下の炊事場で、これらの人たちが分担している活動がはじまった。台の下やその他の隅々はまだ真新しいコンクリート床で、みんながきまって盛に往来するところだけ泥あとのついた炊事場で、ポンプをくみ上げる音、薪をわる音がおこった。
 夕闇の濃くなったそとへ出ようとする玄関口の受付に、電燈がともっていた。そこにかたまっている若い人々の群の中から、つとはなれて、ひろ子の前に来て立った人があった。その顔は笑っている。瞬間、とまどったひろ子は、目を据えてみて、
「まあ、ようこそ!」
 覚えず片手をさし出した。太平洋戦争がはじまる前まで、新交響楽団の定期演奏会は前売切符を会員に送った。その時分にひろ子もよくききにゆき、山沼というその青年も、大抵ききに来ていた。音楽をきいた帰りに、お茶をのみに歩いたりしても、山沼は、或る種の若い人のするような話しぶりをせず、いつも落付いた科学者であった。山沼に会ったのは古くて、ひろ子の友達の長男と同級のよしみで、落ちあったのが縁であった。こういう青年も、今はこの場所に来ている。しかも、受付にかたまって、若い人々の中にいたときの空気でみれば、山沼はおそらく、ひろ子などよりはるかにここに近く暮しはじめている様子だった。
「何年ぶりでしょう。――お元気でいいわね」
「石田さん、体どうですか」
 山沼は、やはり、もとの通りやさしく、しかし必要なことしか云わなかった。
「じゃあ、また」
「お元気で。よろしく」
 ひろ子は、待っていた牧子と一緒になった。純吉は、暗いし眠いし歩けなくなって、牧子におんぶされている。
「失礼ですがあの方、よく御存じですか?」
 しめりはじめた草むらが匂う道を歩きながら牧子がきいた。
「よくって云えるかどうかしらないけれど――なあぜ?」
「たしか、瀬川の御友達のかただったと思うんですけれど……わたしは御存じないんです」
 きょうが目には見えない女と子供のひとつの旗日であったように、誰の目にも見えないカドリールの輪がある。そうひろ子は思った。古風なカドリールの音楽につれて、手から手へ繋がりあって、送られて、まわって、又新しい手につながれて動いてゆく、見えない仲間のカドリールがあるという陽気な気がした。
「ここは、まるでノアの箱舟ね」
 ひろ子が、笑って云った。
「何でも一応あるのね、あんなに大きい髯まであったわ。気がついたでしょう?」
「ほんと」
 眠って軟くまるまる純吉をゆりあげながら牧子も笑った。そして、二人は明るいとき通ったほこりの深いゴロタ石の道を駅に向った。先へゆく一団の中に懐中電燈をもっている人があって、その蒼い光の条《すじ》が、ときどき前方の木立の幹や草堤の一部をパッと照らし出した。

        六

 重吉の左脚の筋炎は、一週間ほどして段々納まりはじめた。日当りのいい八畳に臥ている重吉の湿布をとりかえながら、
「こんどの足いたは、可哀想だったけれど、わるいばかりでもなかったわねえ」
 ひろ子が、云った。
「こんなにして、昼間、しずかに臥ていらっしゃると、しんから休まるでしょう?」
「たしかに、そういうところはあるね」
「世話するものがついていて、すこし工合をわるくして臥ているというようなきもちなんか、あなたとしてこんどがはじめてなのねえ」
 そういうことのほかに、幾日も外出しないで重吉がうちにいるということは、ひろ子にとっていろいろの意味をもたらした。
 自立会へ行った翌々日、卓の上に飾っていた牧子からの白い小菊の水をとりかえていると、臥ている重吉が、彼の公判に関係のある古い書類を出すように云った。
「在るんだろう?」
「それはとってあるわ」
 そう云いながら、余りしまいこんでいて、その紙ばさみがなかなか見つからなかった。ベッドのしまってある奥の小部屋で、いくつもの包みの紐をといて見ているうちに、必要な書類が出るより先に、一つの大型ハトロン封筒が出た。裏に、文学報国会と紫のゴム印が捺されてある。封筒の中にはひろ子の小説をうつした原稿が入っていた。
 見つかった書類と一緒に、ひろ子はその封筒をもち出した。そして、重吉の仕事が一段落ついたとき、
「こういうものが出たわ」
 その封筒を見せた。
 裏をかえしてみて、重吉は、
「文学報国会とあるじゃないか、何だい」
と云った。
「なかを見てよ」
「その日の雪」という題と名だけはひろ子の自筆でかかれている三十枚ほどの小説を、重吉は怪訝そうに、ところどころよんだ。
「誰かに写させたのかい?」
「文学報国会で、戦争中、作品集を出す計
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