画があったんです。そのとき、わたしも会員だったから、作品一篇自選しておくれと云って来たの。それを送ったら、都合によってお返しするとかえして来たのよ」
「ひろ子が自分から送ったのか」
「ええ」
「わざわざ写させてか?」
「そうなの」
重吉は、口元に一種の表情をうかべて、少し念入りにその原稿を見直した。
「婦人雑誌に、何だか中途半端な小説をいくつか書いていたときがあった、あの一つだね」
「そうなの」
原稿を床のそとの畳へ放り出すように置いた。
「ほかの人達もみんな出したのか」
「そうでしょうと思うわ」
「そして、その本は出たのかね」
「どうなのかしら――わたしは見たことないけれど……」
重吉はしばらく黙って、ひろ子の顔をまじまじと見つめた。ひろ子も、その重吉の二つの眼が、ふだんとちがって濃い睫毛に黒くふちとられた四角い二つのまなことなって自分の上にあるのを見ていた。
「ひろ子、覚えているかい? 俺が、文学報国会なんてものは脱退しろ、とあんなに云ったとき、何てがんばったか。――あなたには外の様子が分らないからって、がんばったんだぜ」
そのときのいやさが忘られないように、重吉はひろ子の口真似をして云った。
「そうなのよ。だから、わたし、この封筒もお目にかける気になったの」
「わからないことがあるもんか――ちゃんとわかっていたじゃないか。――会費を送るのはやめたかい?」
「やめたわ。それは大抵の人がやめたでしょう」
もと文芸家協会として組織されていたものが、団体ぐるみ文学報国会というものになって、会員の一人だったひろ子も自然そこにひっくるめられていた。
またしばらく黙っていたのち、重吉がいかにも笑止千万という顔つきで、
「この小説、もしもさきでことわって来なかったら、ひろ子はのせていいと思ったのかい」
「のせたい、と思ったのじゃあないのよ。のせた方がいいだろう、そう思ったのね。あの時分……」
そのことが話したくて、ひろ子は、その封筒も重吉の前に持ち出したのであった。戦争が進み、情報局がすべての文化統制を行って、文学者やその作品をすっかり軍用に統一しはじめた頃、ひろ子たち一群の作家は、不安な状況に陥った。一九四一年の一月から、ひろ子ははっきり作品発表を禁止されて、それからは却って、立場も心もちもきっちり定った。生活万端いかにも苦しいけれども、自分は自分なり、と落付くところがあった。それまでの一年間ばかりはすべてが不安定で、ひろ子は、自分だけが、例えば文学報国会を脱退することで、一層くっきりと目立って孤立することがこわかった。防空壕にたった一人で入っているより多勢といたいこころもちがあった。文学の分野でも、情報局の形をとった軍部の兇悪な襲撃を、たった一人で、我ここに在りという風に、受けとめる豪気がひろ子にはなかった。みんなのいるところに出来るだけ自分も近くいたいという人恋しさがあった。けれども、重吉が、笑止千万という表情でひろ子を見るとおり、ひろ子のそんなこころもちは、書くものを御用に立てない以上、役人にとっても笑止千万なことであったろう。その頃文学報国会の役人は、もう文学者ではなくて、役人どころか情報局の軍人が入って来ていた。
「あのころ、ひろ子が、つべこべ云うのが、不思議でたまらなかった。実にはっきりしているんだもの。どうして、自分の亭主の頸に繩をかけているものを一緒んなってひっぱるようなことをするんだろうかと思った」
「私もそう思うわ。だから、あなたは、よくああいう風におだやかに云っていらっしゃれたとびっくりするの」
面会のとき、文学報国会を脱退するしないの話が出た時、重吉は、おだやかにそのことを云い、ただ、おどろくばかりの根気づよさで、それをくりかえした。きょうも。あしたも。又その次に会ったときも。ひろ子が、遂に云いわけや口実をこねくりまわす余地がなくなる迄くりかえした。
「わたしが、本当にすっきりしたのは、あなたの公判をずうっと一緒にやって行って、それが終ったときだっと思います。――手紙にも書いたわねえ」
「うん」
「前から、いつも云っていたでしょう? 自分という船の自分のコースがしっかり出来たら、どんなにいい気持でしょうって。岸沿いに、岸の灯にひきよせられたり、そうかと思うと濤《なみ》に押しのけられたりしていないで、水の深い沖を自分のコースに従って堂々進行する船になりたいって。――あなたの公判がすんで、江波土に行ったことがあったでしょう。あのとき、はっきりわかったのよ、自分がいつの間にかもう沖へ出たことが。自分のコースというものはもう辿られていたことが分ったの。……だから、わかるでしょう? 私がどんなにあなたの力漕《りきそう》をありがたく思ったか」
ひろ子の妹が、疎開して、夷隅川のそばの障子も畳もない小屋に菰垂
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