「だし[#「だし」に傍点]は七輪にかけてありますから……どなたかお客さまです」
 がらんとした室に、ひろ子の又従弟《またいとこ》に当る青年がひとりで坐っていた。樺太の製紙会社につとめている父親や、引上げて来た母親、子供たちの様子をきいたりして夕飯のしたくが終ったとき、敷石の上を来る重吉の靴音がきこえた。
 ひろ子は、上り口へかけて出て行った。
「おかえりなさい」
 重吉は黙って、踵と踵をこすり合わせるようなやりかたで靴をぬぎすてて上り、ハンティングを、そこの帽子かけにかけた。いつもの重吉は、書類入の鞄から帽子から、ひどくくたびれたときには、その場で窮屈な上着までひろ子の腕へぬぎかけるのであった。
「けさはよっぽどおくれて?」
「一時間ばかりおくれた」
 青年のいる室へ入って、重吉は、簡単に挨拶すると、そこに来ている雑誌の封をあけて目をとおしはじめた。
「お着かえにならないの」
「…………」
 重吉は、洋服のまま、どうしたのか、ひるの弁当があまっていたのを鞄から出して、先ずそれをたべはじめた。
「どうして?――こっち上ればいいのに」
「いいんだ」
 つとめて、ひろ子は若い又従弟と口をきいて食事をすませた。重吉は、すぐ、
「あがるよ」
 鞄をもって、二階へ登って行った。とりのこされたひろ子は体じゅうがよじれるように苦しくなった。
 行ってみると、重吉はぬいだシャツや服を机の上につみ上げて、そのよこのところに本をのせて見ていた。ひろ子は、みんなどけてそれを衣紋竿《えもんざお》につるした。
「――ね、どうなすったの?」
「どうもしない」
「いいえ。こんなのあたりまえじゃないわ……いつものようじゃないわ。ね、どうして?」
 重吉は椅子の上で顔を横に向け、ひろ子を見ないようにしている姿勢のまま、
「どうもしない。きょうから、何でもみんな自分ですることにきめたんだ」
と云った。
「…………」
「すっかり、考え直したんだ。何の気なく、してくれるとおりして貰っていたんだが。俺も甘えていたんだ。――わるい亭主の見本だと思われているとは思わなかった」
 冗談よりほかの意味はありようもなく云った言葉が、重吉をそんなに傷《きずつ》けたことが、ひろ子をおそれさせた。
「御免なさい。わたしふざけて云ったのに――」
「――しかし、ひろ子はしんではおそらくそう感じているところがあったんだ。……世間には良人のことは何でもよろこんでする細君もあるんだろうが。――自分のことを自分でするのはあたり前なんだから、もうすっかり自分でする――監獄じゃそうしてやって来たんだ」
 ひろ子は、思わず重吉の両肩をつかまえた。
「変よ、監獄じゃ、なんて! それは変よ!」
 涙をあふらしながら、ひろ子は恐怖をもって感じた。どういう複雑な動機からか、ともかく重吉は、ひろ子が想像出来るよりも遙かに深い幻滅のようなものを、二人の生活について感じたのだ、ということを。ひろ子は絶望感からそのまま立っていられなくなった。前の畳へ崩れこんで重吉の膝の上に頭を落した。
「考えて頂戴。あなたのことはあなたがなさい、というような心持で、どうして十何年が、やって来られたのよ」
 ひろ子がそんな石のような女で、身のまわりのことにも今後一切手をかりまいと思いきめたなら、その重吉にとって、ひろ子の示す愛着は、どんな真実の意味があり得よう。二人の自然な愛情はなくて、重吉が決して惑溺《わくでき》することのない女の寧ろ主我刻薄な甘えと、ひろ子がそれについて自卑ばかりを感じるような欲情があるというのだろうか。
「あんまり平凡すぎる!」
 ひろ子は、激しく泣きだしながら頭をふった。
「わたしは、いや! こんなの、いや! あんまり平凡だ」
 それにしても、ひろ子には分らなかった。重吉が、こんなに永年の間、互に暮して来たあげく、突然、云ってみれば、今瞼から鱗《うろこ》が落ちた、という風にそれほど深い幻滅を発見したというのは、どういう理由があるのだろう。重吉もひろ子も、劣らず自然なままの生れつきであったから、一方で離反して、一方で繋がれてゆくというようなゆがんだ人工の夫婦暮しは出来なかった。真実重吉の幻滅がとりかえせないものならば、それはひろ子にとっても、これからの生活は成り立たないということなのであった。
 ひろ子は泣きながら、泣いている自分の頭が重吉の膝の上にあること、重吉はそうして泣くひろ子を、自分から離そうとしていないことを、とりすがる一本の綱のように鋭く感じた。ひろ子のこの苦痛の深さに、一心に暮した十二年の歳月が折りたたまって投影しているとおり、重吉の索漠たる思いにも、同じ長い年月に亙って生活して来た彼のひどい環境の照りかえしが決してないと、どうして云えよう。
 閃く稲妻のようにひろ子の心を一つの思い当りが走った。
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