のようにゆっくりと、
「石田さん」
重吉の姓をよんだ。
「わたしは、あなたから後家のがんばりを云われるのだと思うと、本当の後家さんにすまないように思うわ。知っていらっしゃる? つやちゃんだって後家さんなのよ」
重吉の弟の直次は、広島で戦死したのであった。
三
遠い郊外へ出勤する重吉の外出が、段々規則的になり、来客が益々ふえ、隠されていた歴史の水底から一つの動きが、渦巻きながらその秋の日本の社会の表面に上昇しはじめて来た。十月十日に解放された徳田・志賀の名で発表されたパンフレット型の「赤旗」は重吉がかえって間もなく出版され、広い範囲での話題となっていた。其を読むほどの人々は、様々な期待、要求、満足、不満足に、おのずからこの十数年間濃くされて来た個人個人の気質や生きこしかたの色と匂いを絡み合わせて、其について語っていた。忙しくなってゆく迅さは、重吉が市中の混雑や、つっけんどんな乗物の出入りに馴れるよりも急速であった。永年長い道を歩いたことのなかった重吉は、怪訝《けげん》そうに、
「変だねえ、どうしてこんなところが痛いんだろう」
靴下をぬいで、ずきずき疼《うず》く踵をおさえた。
「やっぱり疲れるんだろうか」
「そうですとも! あれだけの間に、わたしたちが会って話の出来た時間が、一体どの位あったとお思いになる? たった百八九十時間ぐらいよ、まる八日ないのよ。ですもの……およそわかるわ、一日にどんなに少ししか歩かなかったか……」
前の晩、おそくまでお客があって、その朝、ひろ子は、起きぬけからすこしあわてた。重吉は、入念に新聞をよみ、紙を出して何かノートを書きつけ、その間には荒れている庭を眺めて、
「あの樽、何か埋めていたのかい」
掘りだしたまま、まだ槇《まき》の樹の下にころがされている空樽に目をとめたりした。西日のさす側の枝から見事に紅葉しかけている楓《かえで》が秋の朝風にすがすがしかった。
弁当を包んでいると、置時計を見た重吉が、俄に、
「ひろ子、あの時計あっているかい」
と云った。
「あっていると思うわ」
「ラジオかけて御覧」
丁度中間で、いくらダイアルをまわしても聴えて来る音楽もなかった。重吉は、いそいで紙片をまとめて身支度にとりかかった。ひろ子は、急にとりいそいだ気になって、
「一寸待って。わたし、まだなんだから」
もう一つ自分の弁当をつめた。その日は、ひろ子も同じ方角に出かけなければならないのであった。一緒に出かけようとばかりせき立って、ひろ子が食卓のまわりでのぼせていると、重吉が、
「ひろ子、ここが駄目だよ」
ぶらぶらしてはまらないカフス・ボタンの袖口をつき出した。洋服を着はじめてから日のたたない重吉には、あちこちで止めたり、しめたりするボタンやネクタイが苦手で、支度にはいつも閉口した。シャツのカフスがどう間違えて縫ったものか特別せまくて普通にボタンをとめてからでは手をとおしにくかった。
ひろ子は、友人の贈物である綺麗な細工のボタンを、粗末なシャツのカフスにとめた。うしろの衿ボタンも妙になってカラーがさか立っている。重吉は自分のまわりを動くひろ子の頭越しに時計を見ながら、いかにも当惑したように、
「時間がないな」
と云った。
「九時半までに必ず行かなけりゃならなかったんだ」
「まあ! あすこまで二時間かかるでしょう。困ったわ。それなら、はっきり云っておいて下さればよかったのに。――いつも通りかと思った」
なおあわててひろ子は、半分ふざけ、半分は本気で重吉の大きい体をつかまえ、少し荒っぽく、
「――こっちを向いて」
カラーをつけ、
「こんどはこっち」
これを前でとめネクタイをしめさせた。
「自分でカフス・ボタンもつけられないなんて、わるい御亭主の見本なのよ」
重吉は迷惑げに、あちこちまわされて、支度が終ると、すぐ出て行った。上りぐちで、
「おいてきぼりになっちゃった!」
そう云いながらひろ子が、重吉の帰る時間をきいた。
「何時ごろ? いつも頃?」
これも貰いもののハンティングのつばを、一寸ひき下げるようにして、重吉は無言のまま大股に竹垣の角をまわって見えなくなって行った。ひろ子は、暫くそこに佇んだまま、むかごの葉がゆれている竹垣の角を眺めていた。重吉は、口をきかずに出て行った。意識した手荒さでまわした重吉の体の厚みが、手のひらに不自然に印象されて、それはひろ子のこころもちをかげらせた。
自分の用事がすんで、ひろ子が帰ったのは五時すぎであった。御飯をたくことと、おつゆのだし[#「だし」に傍点]をとっておくことだけをいつも頼む合い世帯のおとよ[#「おとよ」に傍点]に、
「ただいま。――石田、かえりました?」
ききながら、ひろ子は上り口を入った。
「まだですよ」
「そう。――
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