それが、泣き膨《は》れたひろ子の精神の渾沌《こんとん》を一条の光となって射とおした。ひろ子は、重吉の手をとって、
「ね、云ってもいい?」
ときいた。
「いいさ」
「わたしが、あなたの気もちを傷けたのは本当にわるかったわ。どうか許して頂戴。――そしてね、あなたは、あんなに永い間牢屋に暮していらしたでしょう? あすこには、決して、あなたに対する絶対の支持というものは存在しなかったのよ。いつだって、二重の、いつでも逃げ腰の親切か、さもなければはぐらかししかなかったのよ。そうでしょう?」
「…………」
「絶対の支持、ということがわかる? その幅の中で、どんなに憎まれ口をきいたにしても、馬鹿をしたにしても、それでも、なお絶対の支持であるという、そういう絶対の支持がわかる?」
ひろ子は泣き泣き云った。
「ひろ子の支持は、そういう絶対の支持だということがわかる?」
永い間沈黙していた後、重吉は、はじめて顔を向けて、正面からひろ子を見た。ああ、やっと重吉にとってひろ子は再び見るに耐えるものになった。ひろ子は、両手の間に顔を挾んだ。
「ね、わかる?」
「――絶対の支持なら、どうしてあんなことを云うのかい」
「わるい御亭主の見本?」
「そうさ」
「あら、だって母親だって自分の可愛い児に云うわ、わるい児の見本ですよ、ぐらい……」
「そういう調子じゃなかった」
ひろ子は、じっと重吉の顔をみつめた。苦しく、重く閉されていた重吉の表情はほぐれはじめて、二つの眼の裡にはいつもの重吉の精気のこもった艶が甦っている。ひろ子は、うれしさで、とんぼがえりを打ちたいようだった。
「生きかえって来た、生きかえって来た」
ひろ子は、小さい声で早口に囁いた。
「なにが?」
「――わたしたちが……」
重吉は、やっとわかったがまだ怪訝だという風に、
「しかし、ひろ子の調子に、そんなユーモラスなところはなかったぜ」
と云った。
「そうだったこと?――」
ひろ子は、恐縮しながら、いたずらっぽく承認した。
「そこが、つまりあなたのおっしゃるがんばり[#「がんばり」に傍点]の情けなさなのね、きっと。――でも、もうすこしの御辛棒よ、じき無くなってよ」
重吉を励しでもするように云った。
「あなただって相当強襲なんですもの」
こわい、絶壁をやっと通過したときのように、ひろ子は体じゅう軟かに力ぬけがした。ひろ子は、重吉の膝を撫でた。
「一日じゅう、あんないやな気持で仕事していらしたの、わるかったわねえ」
「そうでもないさ」
率直に重吉は云った。
「家の近くへ来るにつれて、だんだんいやな気持になったんだ」
「そりゃそうね、ああ思えば、もう本質的に家なんてどこにもないんですもの」
うちがない、ということは、ひろ子にどっさりのことを思わせた。十月十日に解放された重吉の同志たちの主だった人々は、殆どみんな妻をもたず、従ってうちをもっていなかった。うちも妻も、闘争の永い過程にいろいろな形でこわされ、とられた。人間らしさを極限まではぎとられた。その痛苦から屈従させようと試みられた。ひろ子にしろ、つかまる度に、女の看守長にまで云われることは、重吉の妻になっているな、ということだった。一層軟かく重吉の膝に頭を埋めながら、ひろ子は、
「げんまん」
重吉に向って小指をさし出した。
「二度ともう憎らしいことは云わないから、あなたも約束して。さっきのようなことは云いっこなし」
自分たちの生活を毒し、あわよくば其をこわす力は、決して無くなっていない。ひろ子は身をひきしめてそのことを思った。正面から攻撃しなくなったとき、それは、嘗て打撃を加えたその痕跡から、そのひずみから、なお襲いかかって来る。ひろ子は、頬をもたせている重吉の左の膝の上の方を考え沈みながら撫でた。そこに、着物の上からもかすかにわかる肉の凹《へこ》みがあった。大腿のところに、木刀か竹刀かで、内出血して、筋肉の組織がこわされるまで擲《なぐ》り叩いて重吉を拷問した丁度その幅に肉が凹んでいて、今も決して癒らずのこっているのであった。
四
腰かける高いテーブルで、重吉が書きものをしていた。その下に低い机をすえて、ひろ子が、その清書をやっていた。
「何だか足のさきがつめたいな」
重吉が、日ざしは暖かいのに、という風に南の縁側の日向を眺めながら云った。十一月に入ったばかりの穏やかな昼すぎであった。
「ほんとなら今頃菊の花がきれいなのにね」
毛布を重吉の足にかけながらひろ子が云った。
「この辺は花やもすっかり焼けちまったのよ」
焼跡にかこまれたその界隈《かいわい》は、初冬のしずけさも明るさも例年とはちがったひろさで感じられた。夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。
「久しぶりで、たっぷり炭をおこして
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