ろどころ錆びたニッケル色のスプリングがひろ子のいるところからよく見える。重吉がいた網走へ行こうとしてこの家を出てゆくとき、ひろ子はその寝台を折りたたんでその隅に片づけた。それなりそこで、きょうまでうっすり埃をかぶっている。重吉がそれを見つけて、
「便利なものがあるじゃないか。一寸休むとき使おうよ」
そういったときも、ひろ子は、すぐそれをもち出す気になれなかった。
この一人用の寝台の金具を見るとき、ひろ子がきまって思い出す一つの情景がある。それは東に一間のれんじ窓があって、西へよった南は廊下なしの手摺りつきになった浅い六畳の二階座敷である。れんじ窓よりにこの寝台が置かれて、上に水色格子のタオルのかけものがひろげてあり、薄べったい枕がのせられてある。入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれで遮《さえぎ》りきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げる匂いがしていた。救いようなく空気は乾燥していた。そして、西日は実に眩《まぶ》しかった。
それは、ひろ子が四年間暮した目白の家の二階であった。二階はその一室しかなくて、ひろ子は、片手にタオルを握ったなり、乾いた空気に喘ぐような思いで仕事をした。
その座敷のそとに物干がついていた。物干に、かなり大きい風知草の鉢が置かれてある。それは一九四一年の真夏のことであった。その年の一月から、ひろ子の文筆上の仕事は封鎖されて、生活は苦しかった。巣鴨にいた重吉は、ひろ子が一人で無理な生活の形を保とうと焦慮していることに賛成していなかった。弟の行雄の一家と一緒に暮すがよいという考えであった。けれども、ひろ子は、抵抗する心もちなしにそういう生活に移れなかった。二十年も別に暮して来た旧い家へ、今そこに住んでいる人々の心もちからみれば、必要からよりも我から求めた苦労をしていると思われている条件のひろ子が、収入がなくなって戻ってゆく。それは耐えがたかった。姉さん来ればいいのにと行雄も云っているのに行かないのは、体裁をかまっているひろ子の俗っぽさだ。そう重吉の手紙にかかれていた。
三年前にも一年と数ヵ月、書くものの発表が禁止された。しかしそのときは、ひろ子一人ではなかった。近い友人たち何人かが同じ
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