しく朝からのことを思いかえして見ても、ひろ子には重吉にそれを云い出させたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]を自分からとらえることは出来なかった。しかも、後家のがんばり、という言葉にふくめられているものは、バカと云われたより、だらしなしと云われるよりひろ子にとって苦痛であった。人生のずれたところへ力瘤《ちからこぶ》を入れて、わきめもふらない女の哀れな憎々しさ。それが、この自分にあるのだろうか。帰って半月もたたない重吉からこんな電車の中で、それを云われなければならないのだろうか。こらえても、涙があふれた。涙をこぼしながら、ひろ子は、大きいリュックを背負った男にうしろからぎゅうぎゅう押されていた。
「――どうした?」
つり革にさがっている方の元禄袖で、重吉から半ば顔をかくすようにして黙りこんでしまったひろ子を重吉は見上げた。
「しょげたのかい?」
ひろ子は合点をした。
「しょげることはないさ」
「……あんなに、貞女と烈婦には決してなるまいと思って暮して来たのに――」
ひろ子は、このとき重吉のとなりにかけている中年男が自分たち二人の言葉のやりとりに関心をもってきいているのを知った。同時に、自分が、涙っぽくしかこの話にふれられない今の感情のひよわさを自覚した。それにしても、どうして、よりによって重吉は、この混雑の中でこんな話をしはじめたのだろう。ひろ子は、気をとり直し、元禄袖のかげから顔を出して、重吉の耳のそばへ囁《ささや》いた。
「ここは、あんまり話しいい場所じゃないわ。そうでしょう? 降りてから。ね……」
「――そうか」
重吉は、ひろ子の気もちや周囲の状況が、はじめてわかったという風に、無邪気におかしそうに笑った。
「でも、どうして急におっしゃるの?」
「どうしてってことはないが、考えたからさ――どうせほかにすることがないんだからこんなとき話しといた方がいいだろう?」
「大抵の人は、こんなところでは話し出さないと思うわ」
ひろ子は、小さくほほえんだ。
「それに……いまはあなたもわたしも、おなかがすいているでしょう? わたしはどうしても、これになってしまうからね」
ひろ子は、指さきで頬っぺたを涙がころがりおちる形をしてみせた。
西へ向って真直に二本、アスファルト通がとおっている。左右は、おそろしく高い切り通しの石だたみで、二つの崖をつなぐ鉄の陸橋が、宵空に太く黒
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