風俗の感受性
――現代風俗の解剖――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瀰漫《びまん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年五月〕
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人類の歴史が、民族の移動やそれぞれの社会形成の過程に従って、各世紀に特徴的な風俗をもって今日まで来ていることは、誰にしろよく知っている。歴史を縦に切った一つの世紀の中でも、地球を横にまわって見て現れる各国の風俗というものは、決して一様ではなく、いつも必ずその世紀の本質とかかわり合いながら、その国独自なものとして現われている過去と未来への諸要因を示しているものだと思う。風俗というものは、その時代に生きる人々の感情を微妙に反映しているから、非常に複雑な性質をもっている。だから風俗について話す価値や面白さは、その風俗がいいとか悪いとか趣好的に或は道義的に現象の表面だけとりあげるよりも、寧ろ、そういう風俗が生れたのは何故か、どういう諸関係がその社会にあったからそれぞれの風俗が生れたのだろうかという処まで立ち入って触れて行くところにあるのだろうと思う。
夏目漱石の「文学評論」は十八世紀のイギリス文学を、当時のイギリスの状況、特にロンドン風俗を背景として観察した点、そして、それを漱石独特の判断で評価しているところに深い価値をもっているのであるが、今日の歴史に立ってこの卓抜な業績を見て感興を覚えることは、漱石が実に容赦なく十八世紀ロンドン人士の俗っぽさ、軽薄さ「詩的に下等」であることを摘発しつつ、では何故そんなに俗っぽくて常識万能の鼻もちならなさが当時の社会に瀰漫《びまん》したかという原因については、深く追究していない点である。同時に、一日本人としての漱石自身が十八世紀のイギリスを俗っぽいと感じ、下等だ、と感じるその感じかたについて、どこまで過去の儒教的な教育ののこりが自身の心持の底に作用しているか、所謂《いわゆる》文人的教養の趣味が評価に際してつよく影響しているかということなどについては、一向省察がめぐらされていないところも、当時の文芸批評として識見の高さを示しているとともにその主観的な限界を語っていて面白い。
その文芸評論の中で漱石は、ディフォーの「ロビンソン・クルーソー」を批評している。「詩的に下等であるから、美的要素にとんだ作品が滅多に少ない」時代「而も精力が充満して活動の表現が欲しいような場合」の「無理想主義の十八世紀を最下等の側面より代表するものである」として、とりあげている。ロビンソン・クルーソーの「詩的に下等」なる所以は、これが「ただ労働の小説である」そして「どの頁をあけて見ても汗の匂いがする。しかも紋切型には道徳的である」からとして、それ以上はその面を切り込まず、作品を構成の点と文章の点から解剖して、遂にこの作品がどんなに非芸術的なものであるかという結論に達している。漱石はロックやヒュームの哲学をも、当時のロンドン生活に見落せない珈琲店の有様とともにふれているのであるが、抑々《そもそも》十八世紀のイギリス文学には何故ロビンソン風の漂流物語が多く出たのか、そのことと旺盛な植民事業の発展とは当時の一般風俗、心理の中でどんな関係をもっていたかというような最も機微にふれた点には探りを入れていない。何故また作者はロビンソンをたった一人孤島に上陸させたかったのであろうか。何故十八世紀の作者ディフォーは特に、漂着して元もっていたもの殆ど総てを失ったロビンソンを、生活の歴史の出発点として描きたかったのであろうか。それらのことは、当時の新しい事情におかれたイギリス社会の心理、風俗の中でどういう必然をもっていたのだろうか。今日の読者にとって最も注意をひかれるそれ等の箇所については分析の力を有《も》たぬ、而も堂々たる文学評論が漱石によって明治四十二年に書かれたこと、そしてこの大文学者が生涯を通じて非文化的非人格的存在と見た社会層の一端には常に「車馬丁」がおかれ、他の一端には「成金」がおかれていたことも、最も複雑な意味で当時の日本風俗の一断面を語っていると云えるのである。
今日の日本の諸風俗のありようというものは、つい先頃までは風俗描写の小説をもってリアリズムの文豪と称した一部の作家たちをも瞠若たらしめる紛糾ぶりである。その紛糾も、社会生活の諸要素が、ゆたかな雨とゆたかな日光とにぬくめられて、一時にその芽立ちに勢立つ緑濃き眺めと云うよりは、寧ろ、もっと力学的な或はシーソー風なもので、風俗の上に現れるあの面は、関係として見ると、その面の裏であると云えるように思う。
日本が全体としておかれている国際的な事情と、積極的に新しい歴史の時代に立とうとしている関係上、同じ躍進の状態と云っても明治時代とは全然ちがっている。
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