余り人を馬鹿にしていると思ったイレンカトムが、少し腹を立てて、
「お入りと云ったら、どうして入らないのか?」
と、アイヌ語で云いながら、もう一遍戸口に出て見ると……これはどうしたことだ、今の今まで声のした二人は、もうどこへか隠れて、後影も見えはしない。
はて! これはどういうことだ?
彼も少なからず不審に思った。
いろいろ考えて見ても、どうしても、若い男と女とを見たのは確かである。女が紫色の小帯をしめて、重ねた上の方のどの指かに、白い指環のあったのさえ見たのだから……
その日は、それなり、妙なこともあるものだですんでしまった。
ところが、それはその日だけでは済なかった。翌日もその翌日も、彼は声を聞く。或るときは四五人の者が来たようであり、或るときは十人以上が群れているように聞えるときもある。
アイヌ語や日本語で、だんだんはっきりと意味の聞きとれる言葉を喋る。
それも、決して、行儀よく話すのではない。どこかずうっとY岬の先の方から、風と一緒に喋りながら、やって来る。そして、小屋の周囲を馳け廻ったり、小屋の中を跳び廻ったりしながら、イレンカトムの「胆の焼ける」ようなことを、罵ったり、揶揄《からか》ったり、茶化したりするのである。
魚を焼いていると、魚が食べたいとねだる。米を煮ると、それを呉れと云う。
そして、始めには、夕方だけ来たものが、追々朝から付きまとって、夜眠ろうとでもすると、寝させまいとして、途方もないいたずらをする。喉を〆《しめ》に掛ったり、息もつけないように口を閉《ふさ》いだりして、叱りつければちょっと遠のいて、また始める。
そんなにされながらも、イレンカトムは、ただ声と、気合《けは》いだけを相手にして、怒ったり、怒鳴ったりするだけなのである。
理窟を云って追い払おうとすれば、なかなか負けずにやり返す。
こうなっては、彼もどうかしないではいられない。一生懸命になって、聞いただけの昔話の中から、声ばかりの化物に就ていってあるのを漁り始めたのである。
考えて考えた末、彼はとうとう、子供の時分父親から聞かされた、コロポックルという小人の話を思い出した。
七
イレンカトムが、父親から聞いた話と思い合わせて見ると、自分に掛るものは、どうしてもコロポックルという、小人らしい。
何故なら、その小人はいろいろな術を知っていて、姿を隠した声ばかりで、人《アイヌ》のところへ訪ねて行ったりしたということも同じだし、自分の父親の友達だった者の名や、役人の名等を覚えて、それに就ていう処を見れば、どうしても古いときからいる者だということが分る。
それに、ああやって風に乗って飛んで来るようなことは、決して体の大きな者共に出来る芸当ではない。
まして、Y岬の近所に、元コロポックルが棲んでいたという穴居の跡が在るのを知っているイレンカトムは、自分のその判断が、決して理由のないことではなく思われる。
きっと、コロポックルに違いない、とその次から注意すると、ちゃあんとその声は、自分達は背丈の短かいコロポックルだと云い始める。
彼はもう、すっかりコロポックルにきめて、山本さんにもそのことを話した。
どうも何にしろ、男や女の沢山の声が、あっちこっち暴れながら、絶間なく喋るのだから煩《うるさ》くて堪らない。一体、私の親父の時代のコロポックルも、あんなに手に負えないものだったろうか、などと云うイレンカトムの話を聞いた人達は、始めのうち誰も本気にしなかった。
けれども、だんだん彼がその声を相手に大論判をしている処へ行あったりして、彼の云うことは信じられると共に、頭の調子の狂ってしまったのも認められない訳には行かぬ。部落では、イレンカトムという名の代りに、皆コロポックルの親父と云うように成った。
勿論、頭が悪いのは事実である。
けれども、彼は自分にコロポックルが現われる――訳の分らない声を聞き、言葉を聞くということは――決して普通なこととは思っていなかった。どうかして、そんなものから逃れたいと思わないことはない。
それだから、医者にも通い、薬も飲んだ。彼の心持は、死んだって、気が狂ったって俺のことはかまわないが、どうぞ豊に会って、渡す物を渡してからでありたかったのである。
豊とちょっとでも知己《ちかづき》の者に会う毎に豊からの便りはないかと訊く。どこにいるか知らないかと云う。
そして、日に一度ずつは、頭の上に附いて歩いて喋るコロポックルを叱りながら、彼方の小山に登って、遙かな往還を眺めた。
毎日毎日同じように馬車が馳け、犬が吼《ほ》え、自転車がキラキラところがって行く。
イレンカトムは、その他の何物をも見出すことは出来なかったのである。
ところが、或る朝早く、彼が炉で麦を炊いていると、例の
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