って来る馬車が、いつもとは違う御者を乗せているのを発見した。
イレンカトムは、幾年振りかで強く鼓動する胸の上に腕を組みながら、ジッと瞳を定めて見ると、確かに! 御者は紛うかたも無い、豊坊である。
いかにも気取った風で、鞣革《なめしがわ》の鞭を右の手で大きく廻しながら横を向いて、傍の客と何か話している彼の洋服姿は、愛すべきイレンカトムの心に、いかほどの感動を与えたことだろう。
笑う毎にキラキラする白い歯、丸い小さい帽子の下で敏捷《すば》しこく働く目の素晴らしさ。
見ているうちに馬車はだんだん近づく。
そして、彼の立っている処からは、一二町の距離ほかなくなった。
すると、今まで傍を向きっきりだった豊は、迅速に顔を向けなおすやいな、いきなり体を浮かすようにして、
ホーレ!
と一声叫ぶと、思い切った勢で馬の背を叩きつけた。
不意を喰った馬は堪らない。土を掻いて飛び上ると、死物狂いになって馳け始めた。
小石だらけの往還を、弾みながら転がって行く車輪の響。馬具のガチャガチャいう音。
火花の散るような蹄の音と、巻き上る塵の渦巻の上に飛んで行く騒音の集団の真中に、豊坊は得意の絶頂で飛んで来る。来る! 来る! 来る!![#「!!」は横1文字、1−8−75] そして一瞬の間にイレンカトムの目前を通ってしまった。
咽《む》せそうな塵埃《じんあい》の雲を透して、なおも飛んで行く豊坊の、小さい帽子に向って、イレンカトムは思わず、
「ウッウッーッ!」
と声を出しながら拳を握って四股を踏んだ。それから、溶けそうな眼をして、ソロソロと長い髭を撫で下した。
斯様にして、当分の間はイレンカトムも、仕合わせな年寄《エカシ》であった。
僅かの間に、豊坊の身なりはめきめきと奇麗になって来るし、馬の扱いは益々手に入って来る。
体もぐんぐん大きくなって、どことなく大人らしく成熟《ませ》た豊は、離れて暮さなければならないイレンカトムの心に、唯一の偶像であった。
実際、大胆で無智で、野生のままの少年は、その容貌なり態度なりに、一種の魅力を持っている。確かに醜くはない。
澄み渡った声で悪口を云いながら、ちょっと左の方へ歪める意地悪そうな真赤な唇。いつも皆を鼻で遇《あしら》うようにジロリと横目を使う大きな眼。それ等は色彩の濃い、田舎のハイカラ洋服ときっちり調和して、狭い御者台の上にパッと
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