ひどくないときでも、山々を流れて行く霧は、灰色に濃くかたまって音のしそうな勢に見える。
それ故、切角春になると直ぐイレンカトムの小屋は、日の目も見えないほど、霧に攻められなければならなかった。
今日も霧、明日も霧。
潮気を含んで、重く湿っぽいガスは、特有のにおいを満たしながら、茅葺き小屋のらんまで透して、湿らせる。
ちょうど、梅雨期のような不愉快さ、不健康さを弱り目に受けて、イレンカトムは、始終頭痛がしていた。寝ても覚めても、耳の中で、虫が巣くいでもしたような、ジージー、ブーンブンと云う音がする。
体中から、精、根が抜け切ってしまったように思う彼は、過敏になって、自分の飼犬の姿にさえザワザワとすることがある。
ときどき、ひどい癇癪を起して、訳なしにあんなにも大切にする黒を蹴ったりするようなこともある。山本さんの家の者は、年寄《エカシ》はこの頃少し痩せたようだね、と云うくらいのことで、別に注意もしないし、彼自身は勿論自分の神経に就て考えるような男ではない。そうしてそのまま日が経って行った。
或る夕方。久し振りで晴れ渡った空が見えるように天気の好い暮方である。
畑で、草|毟《むし》りをしていたイレンカトムは、何だか、妙に頭がグラグラするような心持なので、炉辺に引込んで、煙草を烟《の》んでいた。
すると、戸口の傍で人声がする。何か小さい声で相談でもするように、ボソボソと云っている。
まだ若そうな女の声が、一言二言何か云うと、元気のあるのをようよう小声にしているような若い男の声が、それに答える。声の響きで見ると、アイヌ語を使っている。
何を喋っていることやら……
イレンカトムは、今に入口の垂れを持ちあげて訪ねて来る二人の若い者を待っていた。
待って待って、待ちくたびれるほど、待っても入って来ない。
そこで彼は自分から立ち上って、迎に出た。たぶん極りを悪がってでもいるのだろうと思ったのである。
出て見ると、小屋の隅に、頭を垂れた若い女が案の定立っていて、少しはなれたところに腕組みの男がいる。
誰だか知らないが、来た者はお入り、と云うアイヌ振りの挨拶をして、中に入って待つ。未だ来ない。入りもしないで、相変らず喋っている。喋ること、喋ること、声の高さは変らないが、素敵な早口で、男が喋る。女が喋る。そして、終いには、両方がごっちゃになって何か云う。
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