して、明るくしたり、パタパタと何かを払うように耳を叩いて見たりする。けれども、益々、心持は落付かない。どうもおかしい。このとき、彼の心には、明かに、「夜」に対する伝説的恐怖が目覚めて来るのである。
 怪鳥が人間の魂を狙って飛び廻るとき、死人が蘇返って動き出すとき、悪霊、死霊が跳梁するとき、それが、彼の子供のときから頭に滲《し》み込んでいる夜の観念である。
 暗い夜に外を歩くと、化物に出会って、逃げる間もなく殺されるぞと云われ云われした彼は、今もなお、囲い一重外の夜、闇に対して、深い恐怖と神秘とを抱いている。
 その遺伝的な恐怖が湧き上ると、彼は居堪れないように成って、神々に祷りをあげる。
 一生懸命に謡を歌う。犬にふざける。そして、暁の薄明りが差し始めると、ようよう疲れ切った眠りに入るのである。
 斯様に、S山で余り寂しすぎる一冬を送った彼は、すっかり頭を悪くした。体も悪くなった。けれども、イレンカトムは、自分の転居が失敗だったとは思わない。彼は一言も洩さなかったけれども、自分が若し万一病気にでも成れば、部落ではすぐ近所の者が知っていろいろな物を盗もうとするかもしれない。がここにいれば、人に知らせず、山本さんだけに万事委せることが出来るから、よほど安心だ、と思っていたのである。
 唯一人の彼が臥たら、誰が山本さんまでの使をするだろう? けれども、彼はそこまでは考えたことがなかった。
 追々、雪が薄くなって、木の芽が膨《ふくら》むような時候になると、彼は、小屋の東側に僅かの地面を耕してそこに、馬鈴薯と豌豆《えんどう》を蒔いた。
 誰かは訪ねて来る人も出来、気を変える仕事も出来て来て、イレンカトムは草木とともにようよう生気が出たように見えたのである。

        六

 ところが、その春はたださえ霧っぽい附近の海から、例年にないほどの濃霧《ガス》が、毎日毎日流れ始めた。
 ずうっと沖合いから押し寄せて来るガスは、海岸へ来ると二手に分れる。
 一方は、そのままY岬へ登って馳け、他の一方はずうっと迂回《うかい》して、Y岬とは向い合ったL崎の端《はな》から動き出す。
 そして、その二流はちょうどS山の上で落ち合って、ずうっと奥へ流れ去る。これは、平地を抱えて海まで延びている山の地勢の、当然な結果ではあるのだけれども、その潮路に当るところは堪らない。
 下の部落にそんなに
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