らせながら小燕のように走《か》けるときもある。
または、四五年前に豊がしたように、鞭を廻し廻し馬車を追って行く子供もある。
人が通り、車が通り、犬が馳ける……。けれども彼の待っている物は見えない。
実《まった》く、イレンカトムは、昼でも夜中でも、西側の小山の路へ、ヒョイとせり出しのように現われて来る唯一の、若い、美くしい頭を待ちに待っていたのである。
「飛んで来い」はいつも、きっと元の場所まで戻って来るときまっているだろうか?
けれども、イレンカトムは待っていた。そして、出た者は必ず戻って来ることを信じている。いつ戻って来るか? それは解らない。それだから、彼は絶えず、待[#「待」に傍点]ち、望[#「望」に傍点]んでいたのである。
T港で、豊の姿を見掛けたという噂だけを聞いて、イレンカトムの小屋は、雪に降り埋められる時候となった。
平常でさえ余り楽でない路を、雪に閉されてはどうすることも出来ない。
全く人間界から隔離されてしまった彼は、二十日に一度、一月に一度と、味噌や塩の買出しに降りるときだけ、僅かに人間の声を聞いて来るのである。
その一冬は、彼にとって、どんなに淋しいものであったろう。
ほんとうの独りぽっちで、気の紛れがないから、考えは始終同じ問題にこびり付いていなければならない。
考えれば、考えるほど、心はさか落しに滅入って来て、どうにもこうにもならなくなる。そこで、仕方がないから、ちょっとばかりの酒でも飲んで炉辺でごろ寝をするような癖の付いたイレンカトムは、従って人の眠る夜になると、否でも応でも眼を覚していなければならなく成ってしまった。
窓の隙間から蒼白くホーッと差し込む雪明りに照らされる陰気な小屋のうちで、彼は死んだような厳めしい静寂と、次第に募って来る身の置処のない苦しさに圧迫され、強迫されて、頭はだんだんと理由の解らない興奮状態に陥って来る。
小屋の中じゅう、どこへ行っても、何ものかが満ち蔓《はびこ》っていて、自分を拒絶したり、抵抗したりするような心持のするイレンカトムは、じっと一つ処に落付いてはいられない。
知らず知らず、ブツブツと口小言を云いながら、あちらこちらと歩き廻る。
そして歩き廻りながら、眠りもしないで、こんなことをしている自分は普通でないなと思って来る。
一体どうしてこうなのだろう?
彼は、炉の火を掻き起
前へ
次へ
全21ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング