上ったり……下ったり……右へ行ったり……左へ行ったり……
面白いものだなあと思っているうちに、二つの瞳から入った律動が、だんだんと彼の胸を、想いを揺り動かして来る。
そして、知らないうちに囁きは呟《つぶやき》になり、呟は謡となってイレンカトムの唇には、燃え出した霊の華が、絢爛《けんらん》と咲き始めるのである。
抑えられない感興の波に乗り、眼を瞑り手を拍って我も人もなく大気の下に謡うとき、イレンカトムよ! 卿の額は何という光りで輝き渡る事だろう。
彼は、その[#「その」に傍点]太陽を謡う。その[#「その」に傍点]蒼空を讃美する。
この蒼穹《そうきゅう》のように麗わしく、雲のように巧な繍手であったペケレマットよ!
今巣立ちした、鳥の王なる若鷹のように雄々しい我が息子よ!
我が父も、そのまた父も耕したこの地に立って、お前方に呼び掛ける、この年老いた父の言葉を、
我妻よ! 我子よ! どうぞ聞いてくれ!
母音の多い一言一言が、短かい綴りとなって古風な旋律のままにはるばると謡い出されるとき、彼というものは、その華麗な古語のうちに溶け込んでしまうのが常であった。
彼は野へ行っても、山へ行っても、興さえ湧けば処かまわず謡い出す。
悲しいとき、嬉しいとき、昔の思出の堪え難いとき、彼はただ謡うことだけを知っていたのである。
こうして春と夏とが過ぎて行った。
四
秋になると、暫くの間顔も見せなかった豊が、フラリとやって来て、東京へ行って商売をしたいから、金を呉れと、云い出した。
「何? どこさ行《え》ぐ? どこさ行くだ?」
と、幾度も、幾度も訊きなおして、東京ということが自分の空耳でないのを知ると、イレンカトムは、ほんとにまごついてしまった。
あんなに遠い所、あんなに可恐《おかね》え処、もう生きては戻るまいというようなことを一時に思いながら、彼は、息を殺したような声で、
「豊坊、お前《めえ》、東京たあ如何《あじょ》な処だか知ってるかあ」
と、息子の顔を覗いた。
「如何《あじょ》な処って、お父《と》。東京だって人間の住《し》んでる処さな」
「戯談《おどけ》るでねえ!」
そう云った限《き》り、イレンカトムは黙り込んでしまった。
胡坐《あぐら》を掻いた細い両脛の間に、体全体を落したように力のない様子をして、枝切れで燻《くすぶ》る炉を折々|弄《
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