鹿見ちまいますよ」
「ふーん、ありゃちっと粗忽だった。あんな騒ぎんなる迄主義者とは夢にも知らなかったんだから。――今度はよかろう、人もついて来たんだから」
 長い脛をとんび足に両親の間に坐りこみ、父親が口を利けば父の方、母が口を利けば母親の方と、一心に話模様を聴いていた百代は、
「ね、ね」
と、のり出した。
「何て名なのよ、その西洋人」
「――ラ――何とか――、鈴木さん何て呼んでましたっけ?」
「ラオロか、ラーヨロか、何でもそこいらだ」
「そうそうラオロだよ、変な名だと思ったけどつい忘れちゃった」
「じゃあ、確にそうだわ、その人よ、あすこにも、確にラっていう字があったんですもの――本当に家へなんか来るの? かあさん、本当?」
「本当だって云えば」
 いねは、軽く娘をあしらった。
「だって――、かあさん――何だか嘘みたいだわ私……」
「変な子だこと……何もそんな気を揉むにゃ及ばないじゃあないか――そりゃそうと宿題は? もういいのかい?」
 百代は、一とびに机の前に戻った。彼女はとても、もう英語の単語を二十、発音記号に書きなおすというような仕事を丹念にはつづけていられなくなった。勉強するふりをしながら、百代は夢中になって仲よしで唱歌気違いの道子に報告の手紙を書き出した。

        二

 ラオロの引越して来るという火曜日は生憎六時間授業の日であった。甲賀町の停留場から家までは、百代は脚のつけ根がだるくなる程急いで帰って来た。松田館と瀬戸物の表札をかけた鉄門を入ると、真直階子段の下でさを[#「さを」に傍点]ともう一人の女中が立ち話をしているのが見えた。往来の方を向いていたさを[#「さを」に傍点]がすぐ百代を見つけ、
「おかえんなさい」
と膝をかがめた。
 百代は、ラオロがもう来てしまったかどうか訊きたいのを、やっと堪え、おとなしく靴をぬぎにかかった。母親のいねは、一人娘の彼女が女中と客の噂などするのを聞きつけると、わざわざ出て来て叱るのであった。少し手間どって靴をいじっていると、案の定、さを[#「さを」に傍点]がバナナとネープルを盛った鉢をもう一人の女中に渡して二階へやり、彼女の側へ来た。百代は、式台に立った。
「あの異人さん来ましたよ」
 百代は、胸がどくん、と鳴るような気がした。
「ピアノ持って来た?」
「いいえ――でもおかしいんですね、異人さんの嚔《くしゃみ》も日本人の嚔と同じなんですね、矢張りクシュンてんですもの私おかしくってさ」
「いやな人! 何してる? 今」
「今に会社へ行くんですって、お友達がまだいるんです」
 その時、二階から、女中のはめをはずした大笑いと、いかにも西洋人の太い胴から溢れるらしいハハハハという哄笑が聞えた。二人はびっくりして上を仰いだ。
「仕様のない人だね、お源さんたら――」
 さを[#「さを」に傍点]は迷惑そうに舌打ちをした。
 百代は、威勢のいい足どりで茶の間に入って行った。
「ただ今」
 父親は見えず、母だけが長火鉢の前に坐っていた。
「西洋人、来たんだってね」
 いねは、落付かないような、不機嫌なような眼付で、女学校の制服を裾短く着ている娘をじろじろ見た。
「まあその洋服でも着かえたらどうだい」
 百代は、女中や自分ばかりでなく、母親まで――つまり家じゅうに何かふだんと異う空気の生じているのを感じた。彼女は、メリンスの派手な袷に着換え、振分けのお下髪《さげ》を胸の上に垂しながら、黙ってお八つをたべた。
 五時頃、ラオロが二人の日本人と外出してしまうと、茶の間の気分がやっと少し楽になったように百代は感じた。二階が気になって堪らない風でいた母親も、眉の辺がからりとしたいつもの母親になった。
「――さを[#「さを」に傍点]をかきのけて出しゃばるんだから困りものだね、お源は……」
 出先から帰るなり一風呂浴びた為吉は、半簾を下げた縁先で爪を剪っていた。彼は気軽そうに答えた。
「どうせ二三日のことさ」
 百代は、独言のように尋ねた。
「寝台へねるのかしら――あの人」
「そんなことあるまい――な、おいね、寝台なんぞ持ち込みゃしまい?」
「ええ、夜具包でしたよ」
「寝台なんか担ぎ込んだらとても六畳で納るもんじゃない」
 百代はラオロがどんな工合に部屋をしたのか知りたくて、知りたくて、たまらなくなって来た。両親たちが、何でもなさそうにラオロのことを話し、一刻も早く馴れてしまおうとすると、一層百代の好奇心は募った。大人たちが、わざと詰りもしなそうに自分の前で云っているように落付かない気持がする。
 百代は、するりと茶の間をぬけて台所の方へ行った。ちょうど配膳の始るところで、板の間の膳棚の前へ女中が集っている。
 裏階子を、彼女は片手で手摺につかまりながら二段ずつとばして、音も立てず登った。廊下を、爪先で
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