、猫の仔のように忍んで行き、鍵の手に曲った縁側の前まで、誰にも見られず来た。百代が二階へ登ることなどそれこそうちでは大禁物なのであった。七号、八号と、ややよい部の部屋が並んで小縁をひかえている。障子の前まで来は来たが、百代は障子をすらりと、こわいようであけられなかった。ラオロは、確にさっき、紺地に細い縦縞のある洋服を着、つるりと額の抜け上った頭に銀灰色の帽子を一寸しゃれた被りようで出て行った。けれども、颯《さ》っと障子をあけたら、出会頭にあの響きわたる彼の笑声がハハハハと転り出してでも来そうな気がする。百代は、自分が明けようとする方の障子にすっかり体をかくし、下唇をかみ締めて息を殺しながら、そろり、そろりと、障子を閾の上で滑らした。五分ほどの隙間から、百代は先ず人気ない畳と正面の硝子窓を見た。いやに森と黄昏を照り返している窓硝子、更に少し明けると、緑色に塗った籐椅子の端が目に入った。――ここまで来ると、百代は大胆になり、あとの残りを心の中でばあっと叫んで跳びつくような勢で一気に開いた。が、開けて見ると彼女がとっさに進退|谷《きわ》まったような思いがけない光景で室はあった。陽気な声楽家のラオロはこんなに何も持っていないのだろうか。室には、緑色の籐椅子が一脚在るだけであった。左手の壁にそれでも一枚、大きなブローチをつけた西洋の婆さんの写真が吊下げてある。近所の低いバラックの建築の屋根屋根を踰《こ》えて夕暮の空が広く正面の窓からがらんとしたその室を逆さに覗きこんでいるばかりだ。
 百代は、両手を左右の障子にかけ、驚いた、信じられない顔付で室内を眺め廻した。女中たちは、何を見たくてあんなに来たがったのだろう。この部屋は変に淋しいではないか。ぼんやり光っている薄灰色の壁も淋しい。その前に置いてある毒々しい緑の椅子も淋しい。見れば見る程がらんどうで、ラオロの丸々とした恰好を思い出すと、百代は変に可哀相みたいな、腹の立つような混雑した心持になった。彼女は暫く、唇をへの字なりにして眺めていたが、いきなり駄々っ子らしく顎を反すと空虚な悲しい室に向って挑戦するように舌をつき出した。――彼女はいそいで下へ逃げ出した。桃色の兵児帯が感情をもって房々ゆれた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「文芸春秋」
   1926(大正15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月23日公開
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