部屋
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何《なん》か
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)進退|谷《きわ》まった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さを[#「さを」に傍点]が、
−−
一
二階受持のさを[#「さを」に傍点]が、障子の陰から半分顔を出し、小さい声で囁いた。
「一寸、百代さん、来て御覧なさい」
机に向って宿題をしていた百代は、子供らしく下からさを[#「さを」に傍点]を見上げた。
「なあに」
さを[#「さを」に傍点]は、障子紙に銀杏返しの鬢を擦る程首を廻して玄関の方へ気を配りながら繰返した。
「――まあ来て御覧なさい」
「どうしたの、何《なん》か来たの?」
さを[#「さを」に傍点]は電話室の傍迄百代をつれて来ると、前に立っている彼女の肩を押え、
「ここから見て御覧なさい」
と体を電話室の裏にかくさせた。そこは、二階へ登る階子段下で、一目に玄関の全景が見える場所であった。百代は、後に立っているさを[#「さを」に傍点]の袂を確り捉えながら、そーっと広い三和土の方を覘《うかが》った。と、彼女は急に息をつめたような表情をして、くるりとさを[#「さを」に傍点]の方へ振向いた。
「――鈴木じゃない?」
「――そうでしょう? どうもそうらしいと思ったんですよ。私も。…………」
二人は改めて頭を重ね、熱心に玄関を覗いた。覗きながら、百代は訊いた。
「――家へ来るのかしら」
「西洋人の方らしゅうござんすよ」
玄関では両親が出て応待していた。百代が来たときは、もう大体話は出来たらしく、どっちが何と云ったのか、母親のいねが、膝をついている太った肩を揺すりあげて、
「まあ、面白いことをおっしゃるんですね」
と愉快そうに高笑いしているところであった。
「――じゃあ何です――お部屋を御覧願いましょうか」
母親が後を向き、いきなり大きな声で、
「おさを[#「さを」に傍点]ど――ん」
と呼んだので百代は、ぎょっとして首をちぢめた。さを[#「さを」に傍点]は余り近くにいたのと不意なのとで、直ぐに返事が出ないらしかった。
「いないのかい、おさを[#「さを」に傍点]どん」
百代は、あわててさを[#「さを」に傍点]を小づいた。自然に、
「は――い」
という返事をしそびれたさを[#「さを」に傍点]は、照れた、ばつの悪い風でのっそり出て行った。
「何だよ返事もしないでさ――八番、いいね」
「はあ」
百代はさを[#「さを」に傍点]のその様子がおかしく、くすりとふき出しながら踵でくるりと一廻りした。が強い好奇心が忽ち彼女を静にさせた。春外套を片腕に軽くかけた鈴木に違いない男と湯上りのような顔をした体躯の太ったエルマンのような西洋人が並んで、彼女の隠れているすぐ頭の上の階子を登り始めた。百代は跫音が遠くなるにつれそろそろ板敷の方へ出て、後姿を見上げた。登りきった踊場のところで、母親がひょいと振返って下にいる百代を見下した。百代は、思わず瞬きを止め、睨まれるのを予期した。母親は、然し、変によそゆきな顔をしたまま何も見なかったようにすまして廊下を曲ってしまった。
「――どうも失礼致しました。では明後日お待ち致しておりますから」
「左様なら」
「さよなら」
靴音が入り混って敷石へ去るのを待ちかね、百代は玄関へとび出した。
「かあさん、今の、シネマの鈴木でしょう?」
「知ってるの? お前」
「だって、いつも指揮してるんですもの。――何だって? あの西洋人何なの? 家へ来るの?」
「そうですよ」
百代ばかりでなく、両親も幾分亢奮しているらしかった。前後して茶の間へ入ると、父親の為吉は、先ず煙管に煙草をつめ、黙って一服ふかした。
「ね、なあによあの西洋人」
「――今度、シネマへ出る歌うたいだってさ。今まで横浜にいたんだそうだが、神田まで通うのに厄介だから此方へ宿をとりたいんだってさ」
「本当?」
百代は、
「素敵!」
と手を叩いて坐ったまま踊るようにはね上った。
「私知ってるわよ、それなら」
「知ってる筈ないじゃないか、昨日横浜から来たばっかりだってのに」
「違うわ、読んだのよ、ほら、今度の代り目っから専門家の歌をきかせるって大きく予告してあったじゃあないの」
母親は余り身にしめず、
「そうだっけか」
と答えた。
「そうだっけかって、かあさん、あんなに伊太利声楽の隠れたる天才って書いてあったじゃあないの」
「――ねえ、あなた――」
いねは、百代の方はいい加減にして良人に云った。
「――今度の人は大丈夫なんでしょうね」
「何がよ」
「…………西洋人なんぞ、この商売永年やってても始めてだから――先の奥さんみたいなことでもあった日にゃ全く馬
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