んなことがあっても大丈夫だ、というだけですむのだろうか。文学の経験では、それですまなかったのである。力んで、印を結んだまま奈落へ沈むとおりに、個人個人は威容をくずさず没落した。歴史の波間に沈んだ。
 文学者その他の文筆にたずさわる人々の間では著作家組合が考えられて来た。演劇関係の人々の間に、そういう専門家のかたまりのようなものはあっていいのだろうか。あるべきなのだろうか。或はあるべきだが出来ない理由があるというのだろうか。

 芝居の面白さ、芸術としての魅力は、つまり小説と同じものなのだと思うようになった。仲介となる表現様式は勿論ちがうのだけれども、つまり私たちの生きている人間の諸問題にじかにふれて来る力であり、その面白さの生れるためには、作家、俳優が、いかにも正直なピチピチした社会感覚をもっていなければならないということは共通している。時代に流されてゆく存在から芸術は生れない。これまでは、私たちの感じかたが未熟で、人間的ということと社会的ということをおかしく切りはなして扱って来た。そして、社会的というと何か人間的というよりもあとからつけたした思想[#「思想」に傍点]みたいに思って来た
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