きかかし」の別名かもしれないのである。
演技の前提としての人間的確立などということは、近代の芝居道ではおどろくべく古い云い草なのだろうと思う。きくまでもない、と思われるにちがいない。けれども、日本の社会は、全体が、分りきったこと、云われるまでもないことが、又改めてとりあげられるべき時期にある。新民主主義という日本の面している歴史の段階は、そういう時期なのである。演劇の世界が封建的なしきたりからぬけ切っていないことは土方与志さんのような世界を歩いて来た演出家でさえ、日本の今日の芝居の社会で口をきくときは東宝さん、何々さん、と昔風な仁義の口調をつかっておられるのを見てもわかる。文学の分野はすこし前進している。改造社さんとは云わないで通るようになっているのである。しかも、一方に、急テンポな近代資本主義化が進んでいて封建的にきりはなされ、格式だおれな心理になりがちな俳優たちの生活が、欧米式自由競争、契約の方法にきりかえられようとしている。そういう社会的な波瀾に対して、俳優の生活は、どんな一致した結集力、芸術擁護の実力をもっているのだろうか。俺ぐらいの俳優になれば、或は演出家その他になれば、どんなことがあっても大丈夫だ、というだけですむのだろうか。文学の経験では、それですまなかったのである。力んで、印を結んだまま奈落へ沈むとおりに、個人個人は威容をくずさず没落した。歴史の波間に沈んだ。
文学者その他の文筆にたずさわる人々の間では著作家組合が考えられて来た。演劇関係の人々の間に、そういう専門家のかたまりのようなものはあっていいのだろうか。あるべきなのだろうか。或はあるべきだが出来ない理由があるというのだろうか。
芝居の面白さ、芸術としての魅力は、つまり小説と同じものなのだと思うようになった。仲介となる表現様式は勿論ちがうのだけれども、つまり私たちの生きている人間の諸問題にじかにふれて来る力であり、その面白さの生れるためには、作家、俳優が、いかにも正直なピチピチした社会感覚をもっていなければならないということは共通している。時代に流されてゆく存在から芸術は生れない。これまでは、私たちの感じかたが未熟で、人間的ということと社会的ということをおかしく切りはなして扱って来た。そして、社会的というと何か人間的というよりもあとからつけたした思想[#「思想」に傍点]みたいに思って来た
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