御用の芝居をもってあっちこっち打ってまわらなければならなかったろう。三浦環まで満州へ慰問に行かなければならない日本であったのだから。どの程度経済事情がわるかったろう? 文学の人のように、いい作家でも貧乏し、いじめられつづけて来たのだろうか。それとも、戦争によって益々卑屈に商業性を守ろうとした大資本に買われて、名優たちは金には困らず、芝居としては下らない芝居をして、とりまきからあがめられて来たのだろうか。芸術上に蒙る損傷の形は多様である。文学がジャーナリズム、出版企業に従属する面が多いから、戦争進行プラス企業の追随で益々低落した。劇壇の人々は自身の芸術的生涯と興行資本というものについて、どう考えるのだろうか。

 手許にプログラムがなくて正確に云えないけれども、「プラーグの栗並木の下で」に一人、生活態度のフヤフヤな若い医者が登場する。その人物は性格の弱い、動揺的な人物として描かれているのだが、その役をうけもった若い俳優は、この人物を表現するのに非常な困難を示した。もっと機械的な、張りこの虎めいた勇ましい人物でも演ずるのであったら、その若い俳優はもっと空々しく、自分からつきはなし、型で、三流的まとまりのついた芝居をやったかもしれない。ところが、その俳優の役は、生活態度のふっきれない、決断のしにくい、社会現象のうちにある歴史的な意味や価値をすぐつかめない崩れた感覚の若者であってその人物の性格が、俳優の現実的人間性と絡んで、大きい困難を呈出した。その若い俳優は、自分の精神と肉体とでその崩れやすい人物を十分に描き出そうとすると、どうにもかくせず、俳優自身の生活のくずれがその鉤にひっかかって表面に釣り出されて来たのであった。内面的に、そして行動の上で動揺する人物を描き出すとき、俳優としては一個の確立した人間的存在でなければ、それが描き出せないという事実は、実にわたしをつよく感銘させた。それは上手、下手の問題より、もっと根柢の課題である。人及び俳優として存在することの可能と不可能の問題である。
 文学の面にも、「確立した地位」をもっている作家たちは幾人もある。荷風など最もその例である。しかし、文壇というものがもしあるなら、或は読者の事大主義というものに立っていうならば、「確立した地位」は必ずしも、人間らしい地位でもないし、明日の保障をうけた歴史の前進に伴う地位でもない。或は「悲し
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