芭蕉について
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)朧《おぼろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)渾沌|翠《みどり》に

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(例)[#ここから2字下げ]
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 芭蕉の句で忘られないのがいくつかある。

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あらたうと青葉若葉の日の光
いざゆかん雪見にころぶところまで
霧時雨不二を見ぬ日ぞおもしろき
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 それから又別な心の境地として、

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初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな
馬をさへながむる雪のあした哉
住つかぬ旅の心や置炬燵
うき我をさびしがらせよかんこ鳥
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 雄大、優婉な趣は、

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辛崎の松は花より朧《おぼろ》にて
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
暑き日を海にいれたり最上川
荒海や佐渡によこたふ天の河
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 そして「枯枝に」がある。

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枯枝に烏のとまりけり秋の暮
塚も動け我泣声は秋の風
あか/\と日は難面《つれなく》もあきの風
旅にやんで夢は枯野をかけ廻る
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 連句のなかにもまた独特な感覚がある。例えば、

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このごろの上下の衆のもどらるゝ    去来《きよらい》
腰に杖さす宿の気ちがひ        芭蕉《はせを》

二の尼に近衛の花のさかりきく     野水《やすゐ》
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ      芭蕉《はせを》

芥子あまの小坊交りに打《うち》むれて 荷兮《かけい》
おるゝはすのみたてる蓮の実      芭蕉《はせを》
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 このような様々の情緒とつよい現実感の峯をなして、

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閑《しづか》さや岩にしみ入蝉の声
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の句が、芭蕉の芸術として今日まで消えぬ精神の響をうちいだしていると思う。この雑誌には吉田絃二郎氏の氏らしい「奥の細道」註解が連載されていた。ここにあげた中の幾つかの句は「奥の細道」におさめられているものだが、芭蕉という芸術家が、日本の美感の一人の選手だから、教養の問題として、それがわからないというのはみっともない、そういう気持にかかずらうことはちっともいらないと思う。私たちの今日に生きている感覚に訴えるものをもっていなくて、しかし文学古典の表の中では意味をもっているという作品は実にどっさりある。その場合は、現代の心に響くものはないということに、歴史のすすみの歓びがあるのであって、古典にとっても現代にとっても些も不名誉なことではないと思う。でも、芭蕉の芸術はどうだろう。私は俳諧のことは何にも知らない。全くの門外漢なのだけれども、折々読んだ句集の中から与えられて来ている感銘が多く深いところをみれば、彼の芸術には今の瞬間に息づいている何ものかがあるにちがいない。ここにぬきがきした僅の句は、私たちに理解されるというばかりでなく真実の共感があるものばかりである。芭蕉の芸術の特質である「さび」は同時に日本人の人生態度の底を流れるものであるから、芭蕉の分らない日本人というものはあり得ない。そういう通俗の断論はこれまでに随分流布している。特に、この三四年は日本が日本を再発見する必要に立たされて、文化や芸術の面で日本の古典が再認識を試みられるようになって来た。そして、これまで余り古典にふれなかった文化層の人々がとりいそぎそういうものにとりついて行って、それらの芸術の逸品に籠っている高い気品、精魂、芳香に面をうたれて、今更に古典の美を痛感すると一緒に分別をも失って、それぞれの芸術のつくられた環境の意味と今日の私たちの現実との関係を見失った欽仰讚美の美文をつらねる流行をも生じた。私は俳諧の道にはよらず散文の道をとおって、この芸術の大先達に近づいて見たいと思う。後年、芭蕉が芸術の完成へ辿りついたまでのいきさつというものは、時代と人との相互的な姿を示して感興つきないものがある。誰でも知るとおり、芭蕉は生まれたときからこの名を持っていたのでない。松尾宗房と云い、伊賀国上野町の城代藤堂家の家臣で、少年から青年時代のはじまりはその城代の嫡子の近侍をしていた。既にその時代、俳諧は大流行していて若殿自身蝉吟という俳号をもって、談林派の俳人季吟の弟子であった。宗房もその相手をし早くから俳諧にはふれていたとみられている。「犬と猿世の中良かれ酉の年」というような句を十四歳頃作ったという云いつたえもある。
 蝉吟公が没して、当時二十三四歳であった宗房は「雲と隔つ友かや雁の生別れ」という句を親友に残して上野町から京大阪へ出奔した。原因は何であったろう。いろいろのことが云われているらしい。例えばその時代の武士社会のしきたりに触れる女のひととの恋愛問題が、彼を故郷から去らせたという風な。実際には幾つかの事情がかたまって亡命させたのだろうが、原因はどうであろうとも、とにかく若殿の近侍であった宗房がその主人の死とともに出奔し得たところに、その時代の武士気質が崩れかけて、もう武家時代の気風と異って来ている空気が感じられて面白い。京大阪での五六年間を、宗房はこれまでのつづきで談林派の北村季吟の門に遊んだり、漢籍や書の修業に費したらしいけれども、彼の多感な青春彷徨は、武家時代をひきついで十七世紀の日本の歴史に新時代を画しつつあった商人擡頭期の京大阪の豪奢な日夜のうちに漂って、あらゆる現世的な色彩と歎息とを経験したのは当然であったろうと思う。江戸へ上ったのは宗房が二十九歳の寛文十二年であった。釣月軒として一人前の宗匠であったろう。青年宗匠として彼の才分は、もし生計を打算したら大阪で生活しても行けるだけのものであったろうのに、宗房釣月軒はどんな心持から江戸へ目を向けたのだろうか。江戸へ老後の安楽を求め、立身出世の道を求めて来たとすれば彼は失敗した。江戸で同じ季吟門下の卜尺の厄介になり、或は幕府の御納屋商人杉山杉風の世話をうけたりした。又幕府の小石川関口の水道工事の役人になって何年か過したが、この経済的に不遇な感受性の烈しい土木工事監督の小役人は、その間に官金を使いこんだ廉《かど》で奉行所から処分されたりもしている。
 明け暮れのたつきは小役人として過しており、芸術に向う心では釣月軒として自分と周囲の生活とを眺めている宗房の目に映る寛永年代の江戸は、家光の治世で、貿易のことがはじまり、大名旗本の経済は一面の逸遊の風潮とともに益々逼迫しつつあった。米価はひどい騰貴で商人は肥え、庶人は困窮し、しかも日光の陽明門が気魄の欠けた巧緻さで建造され、絵画でも探幽、山楽、光悦、宗達等の色彩絢爛なものがよろこばれている。よるべない下級武士の二六時にのしかかって来る生活のそういう矛盾が、宗房のような性格の人間に深い影響を与えなかったと考えることは寧ろ不可能である。宗房は敏感なばかりでなく、その時代の人として精神の土台は極めて現実的である。俳諧の道に於て、従来自分の属して来た談林派にあき足りなくなって来た心の動機には、やはり日々の生活からひき緊められるものの作用が大きく働いたのではなかったろうか。俳諧の流行そのものが、云ってみれば新興の文化であり、商人と一般庶民階級の自在な感情表現の欲求にその地盤をおいた文学であった。談林派の俳諧というものは、その先達であった貞門と同じように俳諧を滑稽の文学と見ており、談林は詩型のリズムに自由を求めると共に懸詞にも日常語を奔放にとり入れ、奇想巧妙な譬喩《ひゆ》を求めるあまり、遂には、

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山の手ややつこりや咲いた花盛
引窓や空ゆく月のおとし穴
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というような皮相な思いつきに堕した。
 鬼貫はこの傾向に真面目な疑いを抱いた卓抜な何人かの芸術家たちのうちの一人で、「まことの外に俳諧なし」と思い定めた。「只心を深く入れて、姿ことばにかかわらぬこそこのましけれ」と考え、

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さは/\と蓮うごかす池の鯉
行水の捨てどころなき虫の声
なんと今日の暑さはと石の塵を吹く
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というような純真な作品を生んでいる。釣月軒という常套的な俳号から宗房が桃青という号に改めた感情も、俳諧を言葉や思いつきの遊戯以上のものと感じた緊張がたたまれていて興味がある。桃青にとって追々俳諧は人生の遊びではなくて、人生そのものの芸術化として真剣に映って来ており、芸術の本質のその発展には、水道工事の小役人の暮しも深刻な現実のもののあわれによって彼を豊富にしたと云えるであろう。官吏として順当な出世が望めなくなったから俳道に身をうちこみはじめたというよりも、俳諧の道によってしか生きる心が表現出来ないと益々思いきめて、深川の杉風の鯉の生簀《いけす》の番小屋に入ったとも思える。台所の柱に米が二升四合も入るぐらいの瓢《ひさご》をかけ、三方水で囲まれた粗末な小屋に芭蕉庵と名づけ嵐雪などと男世帯をもった三十七歳の桃青の心の裡は、なかなかの物すさまじい苦悩と模索とに充ちていたと想像される。「殊の外気詰り」なひとで、嵐雪も俳諧のほかは翁を外し逃げなど致候由、と二代目団十郎の書いたもののなかに語られている。
 同時代の芸術家として、近松門左衛門や井原西鶴等の生きかたと芭蕉の生涯とは今日の目におのずから対比されて様々に考えさせるところがある。宗房より二つばかり年上であった大阪生れの西鶴は、通称を平山藤五と云い、有徳な町人であった。妻に早世され、娘を早く喪ってからは店を手代にゆずって僧にもならず一種の楽隠居で、半年は旅に半年は家居して暮すという境遇の俳人、談林派の宗匠であった。町人に生まれ、折から興隆期にある町人文化の代表者として、西鶴は談林派の自在性、その芸術感想の日常性を懐疑なく駆使して、当時の世相万端、投機、分散、夜逃げ、金銭ずくの縁組みから月ぎめの妾の境遇に到るまでを、写実的な俳諧で風俗描写している。住吉の社頭で大矢数一昼夜に二万三千五百句を吐いた西鶴が、そのような早口俳諧をもってする風俗描写の練達から自然散文の世界に入って、浮世草子「好色一代男」(天和二年)などを書き始めた必然の過程は、人生と芸術への疑いにみたされていた桃青にどのような感想を与えたであろうか。近松門左衛門の「世継曾我」が上方で華やかな世評を喚起したのもこの前後であった。京都生れの武士であった近松は、当時崩れゆく武家の経済事情に押し流されて、いくつかの主家を転々した末は浪人して、歌舞伎の大成期であったその時代から辛苦の多い劇作家の生活に入った。芭蕉よりは十歳以上若い彼は、やはり同じ時代の芸術家らしい現実的、写実的傾向に立っていて、門左衛門の劇作に対する抱負は、昔の花も実もない浄瑠璃に対して、「文句に心を用うる事昔にかわり一等高く」、例えば同じ武家を描いても、「その程その程をもって差別をなす」というリアリズムの強調にあった。西鶴は、当時の世相を対象とする風俗描写とそこにおける芸術感情が日常性に腰を据えていることを懐疑しないように見える。近松門左衛門は、元禄という新しい時代の息ぶきで目ざまされ自然平等に発露しようとする人間の情、男女の情が、やはり昔ながらの身分のへだて、社会のしきたりの中にのこされている浮世の義理のしがらみにかかって破られ或は悲しい諦めに陥る悲劇を悲劇のなりに描き出しているように見える。
 芭蕉自身にしろ、西鶴や門左衛門と等しく、古いものの権威の失墜と、人間性の高揚と現実に即してはなれぬ時代気風とを、骨髄に持って成長して来ている。けれども、彼が芸術として俳諧に求めたのは、西鶴のような現象を追うばかりの浮世絵巻としてではない俳諧、門左衛門のように己とひとを涙にとかす悲劇に我から没入せず、何かより勁《つよ》い人間精神の高揚によって社会悲劇をも克服した芸術としての俳諧、そういうものを自分の芸術に求めていたので
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