はあるまいか。そういう芸術探求の道で芭蕉でもやっぱり一度は禅宗などに踏み入っているのは面白い。
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渾沌|翠《みどり》に乗て気に遊ぶ
人死を待《まつ》て生《せい》たはいなし
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こんな禅臭の句も作った。しかし、芸術家としての彼が遂に一大勇猛心をふるいおこして、小さい囲炉裏《いろり》のような私一個の安心立命は思い捨て、この人生が彼にとって根本に寂しと観じられているならそれなり刻々の我が全生活をかけて、感覚と形象の世界へ突入してゆくことで天地の生気の諸相を捉えようと歩み出した。それが、
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野ざらしをこゝろに風のしむ身かな
秋十とせ却つて江戸をさす古郷
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にはじまる「野ざらし紀行」以後の一貫した態度であることは十分頷ける。元禄七年五十一歳で生涯を終るまでの十年、芭蕉はきびしく生活と芸術の統一を護って、「七部集」ほか「更級紀行」「奥の細道」等、日本文学に極めて独自な美をもたらしたのであった。云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれの見解はその道の人々にとっての一大事とされている。私たちはそういう或る意味では煩瑣な芭蕉学から離れ、きょうのこの心のままで彼の芸術にふれてゆくのであるが、それなりに生々とした感銘をうけ、感覚に迫ったものをうけるのは、芭蕉の芸術にどういう力があればであろうか。芭蕉を、彼の生きた時代の世相との関係でみれば、世俗的には負けていて、世事万端の流転を自然とともに眺める哲学の内容も、仏教渡来後の日本の知識人として当時に於いてもありふれたものであった。哲学として或は人生観のつづまりとしては、西鶴も近松門左衛門も最もありあわせた仏教的なものに納まっている。しかし、芭蕉の芭蕉たるところは、哲学的にそういう支柱のある境地さえも自身の寂しさ一徹の直感でうちぬけて、飽くまでもその直感に立って眼目にふれる万象を詩的象徴と見たところにあるのだと思われる。「さび」が日本の心の窮極にあるというよりは、どこまでも感性にふれる形象をとおしてのみ芭蕉の象徴があったという点こそ、彼の芸術が中国にも印度にも無いものである所ではなかろうか。芭蕉には実に微妙複雑な象徴はあるが、抽象はない。少くとも彼の完成した後の芸術境にはない。それだからこそ私たちは、一読「こがねを打ちのべたような」彼の芸術の世界の感性、象徴にひき入れられ、一句一句がそれぞれに「底をぬいて」いること、すなわち夾雑観念のないそのものとしての境地にふれている純一を感じ、対象と作者の感覚の「間に髪を入れざる」印象、本性たがわじの芸術を心に銘じられるのだと思う。芭蕉というと枯淡と言葉を合わせ、一笠一杖の人生行脚の姿を感傷的に描くのが俗流風雅の好みである。真実の芸術家として、芭蕉が「此一筋につながる」とばかり執拗に、果敢に破綻をもおそれず、即発燃焼を志して一箇の芸術境をきずいて行った姿というものは、平俗に逃避したりおさまったりした枯淡と何等の通じるものをもっていない。はりつめて対象の底にまで流れ入り、それを浮上らせている精神の美があるからこそ、芭蕉の寂しさの象徴は感覚として活きているのだし、感覚としての響とひろがりと直接さをもっている。そういう一世界を十七字のうちに立てるため、とらえて現実とするために芭蕉は様式についても言葉一つ一つについても敏感であったのは当然であろう。その点では談林のお喋りに反撥して、鬼貫が「まこと」一本やりで、すがた形を二のつぎにした態度から、歴史的一歩を歩み出している。芭蕉は、二六時「内につとめたる」主観と対象の刹那の結合で俳諧は出来るべきもので、つくるべきものではないとしたが、それは作為を拒んだので、一句一句そのものとしての世界が客観的に確立すべきことは目ざされていた。一つの句は一つだけ、自身のマンネリズムで作るなということもきびしい表現で云っていて面白い。芸術と人生の生きかたを刻々に流れ動きしかも不易である豊富な生命に一致させようという志から、一笠一杖の生活も発している。僧侶風な遁世とは違う。今日私たちが芭蕉に感じる尊敬と感興は、十七世紀日本の寂しさと現代の寂寥の質の違うことを確りと感情において自覚しつつ、従って表現の様式も十七字から溢れていることを知りつつ、猶芭蕉が自身の芸術にとりくんだ魂魄の烈しさによって、今日と明日の芸術の建設のための鼓舞を感じるところにあると思う。芭蕉は弟子に向って、師である彼の芸術的境地の「底をぬけ」ということを切に切に云っている。そういう人物の見当らぬことを悲しんでさえいる。「この道に古人なし」それは古人の跡を追随するなという意味、完成された芸術に屈服するな、今日の現実感覚に立て、という意味できわめて強調されているのである。芭蕉こそ真の芸術家として、古典というものが再びそこにそのままの姿で住むことは出来ない民族芸術の故郷だからこそ価値の深いものであることを知りつくしていたと思う。[#地付き]〔一九四〇年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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