衛門の劇作に対する抱負は、昔の花も実もない浄瑠璃に対して、「文句に心を用うる事昔にかわり一等高く」、例えば同じ武家を描いても、「その程その程をもって差別をなす」というリアリズムの強調にあった。西鶴は、当時の世相を対象とする風俗描写とそこにおける芸術感情が日常性に腰を据えていることを懐疑しないように見える。近松門左衛門は、元禄という新しい時代の息ぶきで目ざまされ自然平等に発露しようとする人間の情、男女の情が、やはり昔ながらの身分のへだて、社会のしきたりの中にのこされている浮世の義理のしがらみにかかって破られ或は悲しい諦めに陥る悲劇を悲劇のなりに描き出しているように見える。
芭蕉自身にしろ、西鶴や門左衛門と等しく、古いものの権威の失墜と、人間性の高揚と現実に即してはなれぬ時代気風とを、骨髄に持って成長して来ている。けれども、彼が芸術として俳諧に求めたのは、西鶴のような現象を追うばかりの浮世絵巻としてではない俳諧、門左衛門のように己とひとを涙にとかす悲劇に我から没入せず、何かより勁《つよ》い人間精神の高揚によって社会悲劇をも克服した芸術としての俳諧、そういうものを自分の芸術に求めていたので
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