以上のものと感じた緊張がたたまれていて興味がある。桃青にとって追々俳諧は人生の遊びではなくて、人生そのものの芸術化として真剣に映って来ており、芸術の本質のその発展には、水道工事の小役人の暮しも深刻な現実のもののあわれによって彼を豊富にしたと云えるであろう。官吏として順当な出世が望めなくなったから俳道に身をうちこみはじめたというよりも、俳諧の道によってしか生きる心が表現出来ないと益々思いきめて、深川の杉風の鯉の生簀《いけす》の番小屋に入ったとも思える。台所の柱に米が二升四合も入るぐらいの瓢《ひさご》をかけ、三方水で囲まれた粗末な小屋に芭蕉庵と名づけ嵐雪などと男世帯をもった三十七歳の桃青の心の裡は、なかなかの物すさまじい苦悩と模索とに充ちていたと想像される。「殊の外気詰り」なひとで、嵐雪も俳諧のほかは翁を外し逃げなど致候由、と二代目団十郎の書いたもののなかに語られている。
 同時代の芸術家として、近松門左衛門や井原西鶴等の生きかたと芭蕉の生涯とは今日の目におのずから対比されて様々に考えさせるところがある。宗房より二つばかり年上であった大阪生れの西鶴は、通称を平山藤五と云い、有徳な町人であっ
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