た。妻に早世され、娘を早く喪ってからは店を手代にゆずって僧にもならず一種の楽隠居で、半年は旅に半年は家居して暮すという境遇の俳人、談林派の宗匠であった。町人に生まれ、折から興隆期にある町人文化の代表者として、西鶴は談林派の自在性、その芸術感想の日常性を懐疑なく駆使して、当時の世相万端、投機、分散、夜逃げ、金銭ずくの縁組みから月ぎめの妾の境遇に到るまでを、写実的な俳諧で風俗描写している。住吉の社頭で大矢数一昼夜に二万三千五百句を吐いた西鶴が、そのような早口俳諧をもってする風俗描写の練達から自然散文の世界に入って、浮世草子「好色一代男」(天和二年)などを書き始めた必然の過程は、人生と芸術への疑いにみたされていた桃青にどのような感想を与えたであろうか。近松門左衛門の「世継曾我」が上方で華やかな世評を喚起したのもこの前後であった。京都生れの武士であった近松は、当時崩れゆく武家の経済事情に押し流されて、いくつかの主家を転々した末は浪人して、歌舞伎の大成期であったその時代から辛苦の多い劇作家の生活に入った。芭蕉よりは十歳以上若い彼は、やはり同じ時代の芸術家らしい現実的、写実的傾向に立っていて、門左衛門の劇作に対する抱負は、昔の花も実もない浄瑠璃に対して、「文句に心を用うる事昔にかわり一等高く」、例えば同じ武家を描いても、「その程その程をもって差別をなす」というリアリズムの強調にあった。西鶴は、当時の世相を対象とする風俗描写とそこにおける芸術感情が日常性に腰を据えていることを懐疑しないように見える。近松門左衛門は、元禄という新しい時代の息ぶきで目ざまされ自然平等に発露しようとする人間の情、男女の情が、やはり昔ながらの身分のへだて、社会のしきたりの中にのこされている浮世の義理のしがらみにかかって破られ或は悲しい諦めに陥る悲劇を悲劇のなりに描き出しているように見える。
芭蕉自身にしろ、西鶴や門左衛門と等しく、古いものの権威の失墜と、人間性の高揚と現実に即してはなれぬ時代気風とを、骨髄に持って成長して来ている。けれども、彼が芸術として俳諧に求めたのは、西鶴のような現象を追うばかりの浮世絵巻としてではない俳諧、門左衛門のように己とひとを涙にとかす悲劇に我から没入せず、何かより勁《つよ》い人間精神の高揚によって社会悲劇をも克服した芸術としての俳諧、そういうものを自分の芸術に求めていたのではあるまいか。そういう芸術探求の道で芭蕉でもやっぱり一度は禅宗などに踏み入っているのは面白い。
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渾沌|翠《みどり》に乗て気に遊ぶ
人死を待《まつ》て生《せい》たはいなし
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こんな禅臭の句も作った。しかし、芸術家としての彼が遂に一大勇猛心をふるいおこして、小さい囲炉裏《いろり》のような私一個の安心立命は思い捨て、この人生が彼にとって根本に寂しと観じられているならそれなり刻々の我が全生活をかけて、感覚と形象の世界へ突入してゆくことで天地の生気の諸相を捉えようと歩み出した。それが、
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野ざらしをこゝろに風のしむ身かな
秋十とせ却つて江戸をさす古郷
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にはじまる「野ざらし紀行」以後の一貫した態度であることは十分頷ける。元禄七年五十一歳で生涯を終るまでの十年、芭蕉はきびしく生活と芸術の統一を護って、「七部集」ほか「更級紀行」「奥の細道」等、日本文学に極めて独自な美をもたらしたのであった。云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれの見解はその道の人々にとっての一大事とされている。私たちはそういう或る意味では煩瑣な芭蕉学から離れ、きょうのこの心のままで彼の芸術にふれてゆくのであるが、それなりに生々とした感銘をうけ、感覚に迫ったものをうけるのは、芭蕉の芸術にどういう力があればであろうか。芭蕉を、彼の生きた時代の世相との関係でみれば、世俗的には負けていて、世事万端の流転を自然とともに眺める哲学の内容も、仏教渡来後の日本の知識人として当時に於いてもありふれたものであった。哲学として或は人生観のつづまりとしては、西鶴も近松門左衛門も最もありあわせた仏教的なものに納まっている。しかし、芭蕉の芭蕉たるところは、哲学的にそういう支柱のある境地さえも自身の寂しさ一徹の直感でうちぬけて、飽くまでもその直感に立って眼目にふれる万象を詩的象徴と見たところにあるのだと思われる。「さび」が日本の心の窮極にあるというよりは、どこまでも感性にふれる形象をとおしてのみ芭蕉の象徴があったという点こそ、彼の芸術が中国に
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