た。原因は何であったろう。いろいろのことが云われているらしい。例えばその時代の武士社会のしきたりに触れる女のひととの恋愛問題が、彼を故郷から去らせたという風な。実際には幾つかの事情がかたまって亡命させたのだろうが、原因はどうであろうとも、とにかく若殿の近侍であった宗房がその主人の死とともに出奔し得たところに、その時代の武士気質が崩れかけて、もう武家時代の気風と異って来ている空気が感じられて面白い。京大阪での五六年間を、宗房はこれまでのつづきで談林派の北村季吟の門に遊んだり、漢籍や書の修業に費したらしいけれども、彼の多感な青春彷徨は、武家時代をひきついで十七世紀の日本の歴史に新時代を画しつつあった商人擡頭期の京大阪の豪奢な日夜のうちに漂って、あらゆる現世的な色彩と歎息とを経験したのは当然であったろうと思う。江戸へ上ったのは宗房が二十九歳の寛文十二年であった。釣月軒として一人前の宗匠であったろう。青年宗匠として彼の才分は、もし生計を打算したら大阪で生活しても行けるだけのものであったろうのに、宗房釣月軒はどんな心持から江戸へ目を向けたのだろうか。江戸へ老後の安楽を求め、立身出世の道を求めて来たとすれば彼は失敗した。江戸で同じ季吟門下の卜尺の厄介になり、或は幕府の御納屋商人杉山杉風の世話をうけたりした。又幕府の小石川関口の水道工事の役人になって何年か過したが、この経済的に不遇な感受性の烈しい土木工事監督の小役人は、その間に官金を使いこんだ廉《かど》で奉行所から処分されたりもしている。
 明け暮れのたつきは小役人として過しており、芸術に向う心では釣月軒として自分と周囲の生活とを眺めている宗房の目に映る寛永年代の江戸は、家光の治世で、貿易のことがはじまり、大名旗本の経済は一面の逸遊の風潮とともに益々逼迫しつつあった。米価はひどい騰貴で商人は肥え、庶人は困窮し、しかも日光の陽明門が気魄の欠けた巧緻さで建造され、絵画でも探幽、山楽、光悦、宗達等の色彩絢爛なものがよろこばれている。よるべない下級武士の二六時にのしかかって来る生活のそういう矛盾が、宗房のような性格の人間に深い影響を与えなかったと考えることは寧ろ不可能である。宗房は敏感なばかりでなく、その時代の人として精神の土台は極めて現実的である。俳諧の道に於て、従来自分の属して来た談林派にあき足りなくなって来た心の動機には、やはり日々の生活からひき緊められるものの作用が大きく働いたのではなかったろうか。俳諧の流行そのものが、云ってみれば新興の文化であり、商人と一般庶民階級の自在な感情表現の欲求にその地盤をおいた文学であった。談林派の俳諧というものは、その先達であった貞門と同じように俳諧を滑稽の文学と見ており、談林は詩型のリズムに自由を求めると共に懸詞にも日常語を奔放にとり入れ、奇想巧妙な譬喩《ひゆ》を求めるあまり、遂には、

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山の手ややつこりや咲いた花盛
引窓や空ゆく月のおとし穴
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というような皮相な思いつきに堕した。
 鬼貫はこの傾向に真面目な疑いを抱いた卓抜な何人かの芸術家たちのうちの一人で、「まことの外に俳諧なし」と思い定めた。「只心を深く入れて、姿ことばにかかわらぬこそこのましけれ」と考え、

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さは/\と蓮うごかす池の鯉
行水の捨てどころなき虫の声
なんと今日の暑さはと石の塵を吹く
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というような純真な作品を生んでいる。釣月軒という常套的な俳号から宗房が桃青という号に改めた感情も、俳諧を言葉や思いつきの遊戯以上のものと感じた緊張がたたまれていて興味がある。桃青にとって追々俳諧は人生の遊びではなくて、人生そのものの芸術化として真剣に映って来ており、芸術の本質のその発展には、水道工事の小役人の暮しも深刻な現実のもののあわれによって彼を豊富にしたと云えるであろう。官吏として順当な出世が望めなくなったから俳道に身をうちこみはじめたというよりも、俳諧の道によってしか生きる心が表現出来ないと益々思いきめて、深川の杉風の鯉の生簀《いけす》の番小屋に入ったとも思える。台所の柱に米が二升四合も入るぐらいの瓢《ひさご》をかけ、三方水で囲まれた粗末な小屋に芭蕉庵と名づけ嵐雪などと男世帯をもった三十七歳の桃青の心の裡は、なかなかの物すさまじい苦悩と模索とに充ちていたと想像される。「殊の外気詰り」なひとで、嵐雪も俳諧のほかは翁を外し逃げなど致候由、と二代目団十郎の書いたもののなかに語られている。
 同時代の芸術家として、近松門左衛門や井原西鶴等の生きかたと芭蕉の生涯とは今日の目におのずから対比されて様々に考えさせるところがある。宗房より二つばかり年上であった大阪生れの西鶴は、通称を平山藤五と云い、有徳な町人であっ
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