んなと同じに、簡単な好奇心だけであちこち見まわしているうちに、その一人が並べられている品ものを、段々仔細に注視しはじめた。何の部分品か分らない金具をとりあげてしばらく指の間でひねくりまわして調べてから頭をふって下へおいた。そこをはなれて、ひろ子が立っていた横を通りすぎながら、真摯なおどろきをあらわした低い声で、ひとこと、ひとこと明瞭につぶやいた。
「日本人は破産している」と。
 偶然きいた外国人のその短い言葉は、ひろ子の耳の底へとおった。そして、心に止った。
 一生懸命に体を平べったくし、翼をぱたぱたやってその水たまりで行水を使おうと骨折っている一羽の雀のもがきのようなものが、ここの家へついてからのひろ子の感情に生じた。直次という生活の中心を喪《うしな》った不幸は、ここの家の女ばかりの暮しから、その悲しみをたっぷり溢れさす気の張りをさえ失わせてしまっている。不幸とはそういうものだ。ひろ子は思った。ここで感情は破産させられている、と。

        八

 ひろ子が、初めてこの西国の村町に来たのは十二年前の一月初旬であった。正月の三ガ[#「ガ」は小書き]日がすぎるのを待ちかねて、ひろ子は東京を立った。その暮の二十日すぎ、重吉が検挙された。ひろ子が幾度足を運んでも、その警察の特高は重吉のための衣類の差入れをさせなかった。一九三三年の二月には小説家の小林多喜二が別の警察でではあるが拷問で殺された。その前後には、ひろ子がその名前だけをきき知っているような人々で、検挙とともに命をおとした人が幾人かあったのである。
 寒中だのに、重吉のために着物さえもさし入れさせない。その一つのことは、なかで重吉がどんな扱いをうけているかを物語っている。ひろ子は、つき返された包みをかかえて、薄暗く凍って曲りくねった警察署のコンクリート階段をゆっくり下りて来ながら、重吉が生きているかどうかさえ、不安であった。母親に対してならば、いかな警視庁も重吉が生きているかどうかということだけは、明らかにする責任を感じるだろう。そこで、ひろ子は、急に東京駅を出発したのであった。
 京都から西を知らなかったひろ子にとって、柳井線沿線の景物は、目新しく映った。内海の色、波のないその海面にさかさに投影しているおだやかな山の緑。港の船の檣《ほばしら》の林立と、帆が、布幅をたてに縫い合わされていて、絵にある支那の船の帆のようなのも、すべてが物珍しく映った。石がちの土質の白っぽさも、東北とは全く異って櫛比《しっぴ》した町々の屋根、前に見える細い街路も面白かった。二人で来ることのなかった重吉の故郷の景色として、沿線の眺めはひろ子のこころに迫った。
 石田の家のある駅にスーツ・ケース一つ下げて降りたとき、町には正月の粉雪がふっていた。ひろ子の髪や茶色の襟巻に白い雪の片がとまった。駅の名だけを重吉の親たちの手紙から覚えていたひろ子は、来て見れば、きくまでもないそこへの道を駅員にたずねた。そして、訪ねて行ったのであった。その頃重吉の家では、まだにぎやかに商売をしていた。米穀、油類、セメント、左官材料、薪、木炭、タバコ、塩。ほかに直次と進三がトラック運送に働いていて、仲仕が雇われていた。中風にかかっている父親もいくらか体の自由がきいていた。突然東京からひろ子が訪ねて来て、
「ひろ子でございます」
と挨拶したとき、重吉の親たちは、にわかにお父さん、お母さんと呼ばれる自分たちにおどろいたし、ひろ子は、母の若さにおどろいた。重吉はひろ子を妻にしてから、故郷へかえる暇なしに非合法の生活に入ったのであった。
 他人にきいてひろ子が歩いて来た往還には、時々バスが通っていた。狭い一本道路を、田舎のバスらしい権威で驀進《ばくしん》するから、重吉の家の店のガラス戸も、前の沢田という家の四枚のガラスも、泥はね[#「はね」に傍点]だらけであった。低いトタンの軒すれすれに日に何度かバスは往来した。
 やがて直次が入営し、現役からかえり、更に召集されて北支にやられた。日本中で、千人針が縫われ、駅々街々で紙の小旗がふられていた。その留守に重吉の父は歿した。大正九年経済恐慌のとき破産した重吉の一家は、その頃ようよう負債整理がついて自分たちの家だけとり戻したのであった。
 進三の入営の番が来た。兄の重吉と弟の進三のいない家へ、三年目に直次が還って来て、母の見つけた嫁のつや子と婚礼をした。
 中国や満州に侵略していた日本の戦争は、その時分ますます拡大し、生活は著しく変化しはじめた。統制によって、商売は非常にむずかしくなった。大きい川に沿って、低い峠や林、田圃《たんぼ》などを間にはさみながらとびとびにつらなって上《かみ》、下《しも》にわけて呼ばれているその町と、さらに二里ほど行って海岸に面した田原とが、合併されて市になった。それはこれまでのように地方の発展によって膨脹して町から市になって来た市ではなく、全く軍事的な目的のために、田圃と畑が一躍市につくられた。徳山市からその新造の市まで五里の間、一本の軍用道路が貫通されることになった。その道路は軍用トラック専用のものであり、断乎たるものであり、軍人が地図の上に引いた一本の線のとおりに必ずつくられなければならないものであった。
 ひろ子が、四年前一番終りに重吉の家を訪ねたとき、母は、その新道のことを苦にしていた。
「ほん、困りじゃのう、あんた。何でも、ここの軒ぐらいの高いところへ出来るというちょる」
 新道のうっとうしさと直次の三番目の召集の不安とが、からみあって語られた。二度目に召集されて入隊し、明朝乗船という前夜、直次は急性盲腸炎にかかって、とりのこされた。
 そのとき集められた予備の一隊は、どこか南方へやられた。
 せまい往還を荒っぽく日夜突進するバス、トラック、ダットサンの交通は、根太のゆるんだ粗末な重吉の家を朝から夜中まで震動させた。二階から見える線路の上に、兵隊を満載した列車が長い間とまって、町の婦人会の女たちはその兵隊たちに茶や握り飯の接待をした。新しく出来た軍事市は、巨大な工廠を中心としていて、近隣の農村の若い男女、少年たちを総動員した。朝と夕方きまった時刻に、重吉の家の前の往来は、そういう村々からの自転車のりで一杯になった。どのバスにも赤字で憲兵と書いた腕章をつけ長サーベルに長靴の男がのっていた。どこへ行って、どこへ帰る必要があるのか。知っている者はなかったが、いつも憲兵が一人ぐらいは乗っていた。その冬、アメリカとの戦争がはじめられたのであった。
 こんど来たひろ子が、二階の東窓をあけてみると、母が苦にした軍用道路は、裏の無花果《いちじく》の梢に手のとどくぐらいの高さで完成されていた。溝川一つへだてて、辛うじて重吉の家はそのままのこされたが、麦畑はつぶされ、その先の田圃も埋立てられ、その畑をつくっていた一軒の家は、在ったところをずっと山際よりに引こんだ。新道は、軍人が地図の上に引いた一本の線どおり、必ず真直に、断乎として作られなければならなかった。そしてそれは、作られた。直次は必ず応召しなければならなかった。そして、それはそのとおりにされた。
 バスは、もう狭いもとの往還の上を走っていなかった。バスは、裏の新道の上も走ってはいなかった。あわただしく作られた軍用市は機能を喪失し、川に沿った上《かみ》、下《しも》の町は、機械的に一本の道路で貫かれているだけで、麻痺に陥った。この五十戸あまりがかたまっている部落に今は新しい名がつけられている。
「後家町」
「後家町」の裏の新道を、工廠の方向から時々トラックが走った。ドラム罐をつんでいるのもあるし、材木を積んでいるのもあり、時には山の方へ疎開させた家財道具が逆もどりして来るトラックもあった。しかし、そのどれもが、直接「後家町」に縁はなかった。何故なら、最後のドサクサの間にうまいことをしてドラム罐をどこかへうつしていたり、工廠用の木材を流用する役得をせしめたりしたのは、みんな、工廠関係の男たちであったから。そういう男たちがいる限り町の名は、「後家町」と呼ばれたりはしないのであるから。
 母とつや子とが直次をいたむ口調のうちには、直次さえいたならば、時勢の激変でこぼれ出した利得を、この門口から素通りさせてはおかないものを、という思いがはっきり汲みとれた。
 石田の家は、息子三人に父親、働くものも男ばかりという生計であった。その中心に、登代が永年の借金暮しを辛棒し破産をもりかえす才覚で人々におどろかれるような勤勉な明暮れを送って来た。母の才覚、深い計量は、重吉こそ欠けていたが、いつでもそれを実現してゆく男たちの素朴な力のつよい腕や背中をもっていた。直次が亡くなり、進三は現役からひきつづいて濠北からかえされず、さりとて登代の寸法で男たちを集めて働かせる商売そのものが無くなっている現在、登代の活動を愛する生れつきは、在って甲斐ないもののようになった。
 少年時代重吉が机をおいて暮していた二階の東窓の下に、ひろ子はくたびれの出た体をよこにしていた。別棟で更に東につき出ている台所で、いきなり四歳の昭夫が、
「いらん! いらん! いらんいうたら、いらん!」
と癇声をふりたててどなっているのがきこえた。同時に、はいている大人下駄で地団太ふむ音がした。
「なにいうてるのよ、昭ちゃん。かたい云うから柔《や》わうにしたんじゃないの、じら[#「じら」に傍点]云わんとたべんさい」
 小麦と米を挽き合わせた「はったい粉」をねって、二人の子供らは時をかまわずたべていた。そのねりかたがかたい、軟かすぎると、ひろ子がついて間もなくから昭夫はあたけた。
「いらん!」
 ガチャッと何かがころがる音がした。
「昭ちゃん!」
 思わず怒ったつや子の声になった。
「どうして、お前、そう云うことをきかんの?」
 お父ちゃんに云いつけますよ、とおきまりに結んで来たとしか思えない言葉じりを、つや子はそのまま途切れさせた。溜息でもついている風であった。やがて、気力も張りもない、すてたような調子で、
「母さんはもうしらん」
 つまらなそうに歩いてどこかへゆく跫音《あしおと》がした。そのまま台所はひっそりした。あとには昭夫が一人で、すきなだけ板じきをちらかして、はったい粉をたべているのだろう。
 上目づかいの癖がある小さい昭夫は、食事のときも、
「くわん」
 そう云ったきり、一旦とりあげた箸を粗暴に食卓の上に投げ出した。
「どうで! 昼もようたべんと」
 登代が気づかって、顔色のよくない、きょときょとした昭夫を見た。
「治郎ちゃんを見い。ようたべちょる。さあ兄ちゃんじゃけ、昭夫もお行儀ようにせにゃ、東京のおばちゃんが、もうお土産もって来てやらんといの」
 昭夫は、ひろ子を見あげて、にやっと笑った。
「さあ、お汁かけて。ほん、美味《うま》そうなじゃあろが」
 昭夫は、自分の前に豆腐の澄汁をかけた、茶碗がすえられきるまでじっと見ていて、又、
「くわん!」
とくりかえした。
「いもがええ」
 それ助かった、という風に祖母と母親とが、
「何で、そんなら早うそう云わんのじゃろ」
と蠅入らずから、ふかした薯の皿をその前へ出してやるのであった。
 ひろ子が最後に来たとき、昭夫は生れて百日たったばかりの赤子だった。亡くなったお祖父ちゃんに似た色黒い面白い赤坊で、ちょこなんと抱いてとった写真を重吉のところへも送った。自分に子のないひろ子は、甥姪たちに特別な情愛を動かされ、注意をひかれるのであった。台所の蠅入らずの上に、陰膳をそなえていたときのまま直次の写真が飾られている。その写真で直次は浴衣がけで、あぐらをくんでいる。ゆったりと大きいあぐらのなかに、今よりずっと稚い頃の昭夫がまるっこく抱かれて、赤子のぽちゃぽちゃした顔に、可愛く眼、鼻、口をつけて、こっちを見ている。直次は、若い父親らしい表情で、口元をゆるめてとられているのであった。
 しんみりとその写真をみせ、父さんについて語り、昭夫の気分を落付かせてやろうと努力する根気もつや子にはないらしかった。日頃体のよわいつや子は、直
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