な野郎ばっかりですから、何の脚一本ぐらいっていうわけで、物凄い景気なんですが……どうも」
 すこし落付きをとり戻したように、煙草に火をつけた。
「段々案外の不自由が出て来るもんでしてね。私には五つになる坊主があるんですが、片脚ちょんぎられた体では、もうその坊主を立って抱いてやるということが出来ないんです」
 小さい息子に対して、自分のやりたい方法で可愛さが表現出来ないことを悲しんでいるこの片脚の人の言葉のかげに、ひろ子は、一層微妙に、妻への様々の思いが湧いていることを察した。ひろ子は、心からのはげましをこめて云った。
「お子さんは、坐ったまんまだって、高い高い、でもして上げれば、それこそ有頂天よ。お母さんでは、もう五つの坊やは、高い高い、出来ないんですもの」
 すこし間をおいて、重ねて、
「ほんとに、御心配なさらないことです」
と云った。
「愛情は変通自在なんですもの、本当にどうにだってなるんですもの」
 愛するということにきまった形しかないものなら、重吉とひろ子とは、どうやって十二年の間、夫婦のゆきかいを保って来られただろう。ひろ子はこの不幸な人の弱気を、うしろから押すようなこころもちでそう思った。二人の幼い息子をのこして義弟の直次に戦死された若いつや子は、形の上で断絶された愛を、これからどうやってもち越していったらいいのだろう。戦争にひき出され不具にまでされた上、愛する確信さえ失うとしたら、人の一生として、きりこまざかれかたがひどすぎる。剛毅を。剛毅を。ひろ子は、それが湧き出ずる清水ならば手にすくって、その人の口から注ぎこみたいように感じた。
 もう小一時間で京都に着くというとき、片脚の人は、ふと改った口調になって、向い側の「教・総」に云った。
「自分は、京都で下車いたしますが、一つ何か、記念になるお言葉を頂きたいと思います」
 腕組みをしていた「教・総」はそう云われた途端、ほんのりとその顔を赧らめた。それは、能面になっているときの顔とはまるでちがって、好人物らしい、はにかんだ表情があった。
「自重して暮して下さい」
 考えながらおだやかに、そう云った。
「そして、勉強する。む、勉強する。何より勉強が大切だ」
「ありがとうございます」
 列車はその時小さい丘の裾をめぐって走っていた。列車のまきおこす突風で、野草がゆられ、萩の花がなびくのが見えた。
 やがて又、片脚の人が言をついだ。
「どういうもんでしょう。こういう情勢になりましたから国体論というような本は、みんな、かくしておかなけりゃいけないもんでしょうか」
 ひろ子は、駭《おどろ》きをもって、その質問をきいた。
 あのときはああいう本をかくし、今は又こういう本をかくす、という風にすぐ気がまわるほど日本人を卑屈にしたのは、何ものであるのだろう。
 質問は「教・総」にとっても思いがけなかったらしく、意外そうな顔をもたげたが、暫くして武骨に答えた。
「われわれは飽くまで国体護持に終始する」
 片脚の人は、「は」というような言葉で挨拶して、それなり黙りこんでしまった。それは片脚の人にとってほしい答えでなかったことは明かであった。そうかと云って、信念として、しかも「われわれ」の信念としてそう云われた言葉を、片脚の人は、どう押し返すことが出来たろう。同じ歴史の頁の上に顔を見合わせながら、互に扶けるどんな力もなくなったものとして、二人の間にはそれぎり言葉が途絶えた。
 全く黙りこんでしまった片脚の人は、いよいよ家族に遭う時が迫れば迫るほど、不安が胸にこみあげて来た風で、うなだれたままになってしまった。そして京都駅に列車が止ったとき、心配そうにいそがしく出迎の人をプラットフォームの上に求めながら、松葉杖を鳴らして降りて行った。大阪駅へついた。ここで、「教・総」とその若い従卒とが降りた。白絹は、わざわざ車窓から首を出して、焼けのこってはいるが、薄暗いプラットフォームを見ていた。やがてその首をひっこめて座席へ腰をおろしながら、
「大勢迎えに来ていますよ、なかなか大したものらしい。将官級ですナ」
 そして声をおとし、
「大部責任の重い地位らしくて、自決の決意を洩して居られました」
 白絹が、その軍人に対して万事ひかえめに応対していたこころもちの原因が、わかった。
「さて、ここまではいいとして、これからがことですよ、山陽線は実にひどうござんすからね、先ずおくれずに行くことはないんだから」
 ズボンのポケットから時計を出し、ゆっくり見てから、どこやら解放されたという表情で、大きく、のびのびと伸びをした。
 ひろ子の乗っている車室は電燈の故障で、大阪駅を出てからは、真暗闇のまま疾走した。
 折々通過する小駅の灯かげが暗い車内にサッとさしこむとき、混雑した荷物のでこぼこや人影が黒く浮き上った。わきの窓はこわれていてガラスがなかった。

 重吉の母の登代が暮している町は、瀬戸内海に沿って、もとは山陽線本線がずっと迂回して通っていた場所にあった。現在の本線は、その北を直線に徳山市へのびている。
 東京駅の案内所でしらべたとき、下関行急行は朝の四時すぎ岩国へつく筈であった。そこで、支線にのりかえるのが順序と教えられた。
 これまで幾度かその田舎の町へ来たとき、ひろ子は、広島でのりかえるのが習慣であった。待合所の食堂でたべた牡蠣《かき》の香ばしさも、名産レモンの黄色いすがすがしさも忘れていない。しかも、直次の三十四歳の生涯は広島で終らせられた。せまい町筋に大通りが多い広島市街の光景と、海に注ぎ入る河に架っている橋々も目にのこっている。
 窓ガラスも電燈もない真暗な汽車の中で、眠ったりさめたりしているうちに、ひろ子は広島でのりかえて見たい気になった。
 白絹も、広島でのりつぐのであった。
「どうです、あなたも降りられるんなら、そろそろ出ていましょうか」
 通路に寝ひろがっている人々をまたぎ、膝をついてやっと大荷物の上を越し、リュックを背につけたひろ子は出入口のドアのところまで辿りついた。洗面所の中にも、接続板の上にも、ステップにさえ外向きに腰かけて、荷物と人が、女まじりに立ったり、しゃがんだりしてうとうとしているのであった。
 夜が白みかけていた。雨降りで、濡れた灰色の外光の中に、つい近くを松林や草堤がぼんやり眠たげにすぎてゆく。
 雨は長降りになりそうな降り工合である。
 いくらか上り勾配にかかった様子で列車の速力が落ちた。そのうちスーと停ってしまった。
「妙なところで止るじゃないか」
 白絹が不安そうに顔を動かして云った。
「広島まで、もう何分ぐらいですかな」
「まだよっぽどだアな。三本松にかかったばかりだから――一時間の余あらあ」
「早く出て来すぎたかな、こりゃあ」
 がくん、と汽車は動き出した。徐行して、そろそろ普通の速力を出すかと思う時分、つよい排気の音をたてて又ズルズルそのまま止ってしまった。
「どうしたんだ、故障か。いい加減にしろよ」
 白縮のシャツの上から腹巻をした、三十がらみの男が戦闘帽を後へずらしてかぶった頭をつき出して、線路の前方を眺めた。
「三本松じゃ、汽罐車がうしろへもう一台つくんだ。いつもそうだよ」
 列車は、松の生えた低い堤の前にとまっていた。土堤《どて》の下草が繁っている。しめっぽい小雨の中へ、二三人男がとび下りて行って小便をした。
 列車は、いつになっても動き出す様子がない。ひろ子は肩からリュックをおろして、窮屈な足もとにおいた。白絹も荷物をおろした。
 そして時計を出して見た。
「これじゃ仕様がない、もう二時間もおくれちまった」
 それに答えるものがなかった。ひろ子に半分、自分の荷物に半分、もたれかかるようにして、こわい真直な髪を真中からわけた朝鮮の若者が立ったまま眠っている。そのうしろに丸まって、腕に顔を伏せている若者も朝鮮人であった。次の車室からそこまで溢れ出している旅客は殆どみんな朝鮮の人たちである。
 となりの車室も、電燈がついていず、外界が、ぼんやり白みかけて来ているので一層車内にこもる夜の暗さが濃く深く思える。しかし、その暑苦しい暗闇の中はひどく賑やかであった。
 愉快そうに入りまじった男や女の高声がしていて、どの声も喉音や吃音のまじった朝鮮の言葉でしゃべっている。一切の世帯道具をもって、今や独立しようとしている故郷の朝鮮へ引あげてゆく人たちの群である。
 こっちの車室は、一様にくたびれ、眠たく朦朧《もうろう》の中に陰気にしずまりかえっている。二輌の車のつぎめに立っているひろ子に、そのちがいは、いかにもきわだって、体の両側から感じられた。朝鮮までの旅と云えば、まだまだ先が長い。気をせくことはいらない。そうにちがいないけれども、その暗闇のうちに充満している陽気さには、何とも云えないのびのび充実した生活の気分があった。この人々は、絶えず何かを食べ、絶えずしゃべり、夜なかじゅうそうして旅行して来ている横溢が感じられるのであった。つよくこころをひきつけられて、ひろ子は精力的な、乱雑ながやがやに耳を傾けた。
 薄くらがりでじっと動かないひろ子を居睡りしているものと思って、白絹が声をかけた。
「あぶないですよ、眠られると――」
「ありがとう。――大丈夫です」
 白絹が行こうとしている村は芸備沿線にあった。そこに弟の家族が住んでいた。娘のようにしている姪も二人いるのであった。
「私もまあ、運がいい方と見えてこれでどうやら無事に一段落だから、一つ弟んところへ行って少し金でもわけてやろうかと思ったりしましてね」
「本当にね、戦さで儲かったお金には、人の命がかかっているんですものね」
 ひろ子も率直なもの云いをした。
「全く、ばかみたいなもんでしたなあ、私なんか、ちょいとした工場をやっていただけなんですが、それで一年も経たないうちに、小三十万儲けたんだから。――ばかみたいなもんでした」
 白絹はちっとも皮肉でなくそうくりかえした。
 ひろ子の前にいた、これも朝鮮の男が、そのときこわばった胸をひらくように反らして、外を見上げ、ひょいと線路わきの砂利の上へおりた。
 途端にガタンとひどい揺れかたをして汽車がすこし動き出した。幾つもの声があわてて、早く乗れ、という意味だろう、朝鮮語でわめいた。とびついて、その男がのりこむと一緒に、汽車は又ゆすぶれて止って、もう動かなくなった。まわりのものが笑った。
 そのとき、隣の車室の薄ぐらい陽気な混雑の中から、少女の澄みとおった一つの声が、突然アリランの歌をうたい出した。
[#ここから3字下げ]
アリラーン
アリラーン
アリラーン    越えてゆく…………
[#ここで字下げ終わり]
 メロディーをゆったりと、そのメロディーにつれて体のゆれているのも目に浮ぶような我を忘れてうちこんだ声の調子でうたい出した。それにかかわりなく男女の話声は沸騰していて、間に年よりらしい咳や笑声が交る。
 うたでしかあらわされない気持のいい、よろこびの心が、暗くて臭い車内から舞い立っているように少女はアリラーンをうたっている。ひろ子は、しんを傾けてその歌をきいた。ひろ子の見ひらかれた瞳に、まだ動かない列車沿いの堤に生えている松が映った。雨の暁方の鈍い鉛色の外気の中で、松の葉が、漸く黒くほそく見わけられた。

 雨の中を、ひろ子は小走りに地下道へ馳けこんだ。広島駅でいくらか元の形をとどめてのこっているのは、その地下道だけであった。一望の焦土というのは形容ではなかった。もうそこは、ひろ子が知っていた広島市でもなければ広島駅でもなかった。駅長事務室が、引込線の貨車の中に出来ていた。なまなましい傷の上に、生活が再建されようとしているのである。駅の見当さえつかなくなって、リュックを背負ったひろ子は地下道の右側の段に突立っている少年駅手にきいた。
「これから岩国へ行く汽車は何時に出るんでしょう」
「六時四十分!」
「六時四十分?」
 ひろ子は間誤ついてききかえした。三本松で三時間も不時停車した列車は、ついたときに、七時すぎてしまっている。もう出てしまった列車を教えられ
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