軽蔑するように、おっさんは鼻であしらった。
 考え耽り、或は隣室の話声に耳をかし、ひろ子が時のたつのを忘れていたところへ第一建物会社の若い者が、使に来た。キャバレーの主人は、岡山までの汽車があるうち逆行することにしたから、スーツ・ケースをわたしてくれ。松だけは、のこしておくからよいように、というのであった。
 その使いが去って、ひろ子は荒れた宿にまた一人のこった。障子をあけて手摺ごしに見ていると、裏の篠笹山に、薄すり日が照って来て、どこか見えない屋根のあっちで、鳶が舞いながら澄んだ声で鳴くのがきこえた。うすら日に白く光る両脚が段々まばらになり、鳶は高く舞い鳴き、そのまま晴れるのかと思う間もなく風立って、篠笹山にさーっと音を立てて雨がかかって来る。その眺めには、変化があった。
 肌寒くなって、ひろ子はリュックから羽織を出してセルに重ねた。そこへ、素早い道づれにおき去られた支店長が、失望の表情で帰って来た。
「困ったことになりましたな、どうも」
 入るなり云った。
「今のところ恢復の見込みは全然ないんだそうです。明石から先はいいんだそうだが、そこまでが駄目なんです。もとだったら徹夜をかけて四五日で直したところを、今は何しろ人を動かす米がない、酒がない、資材がないので、まるで見とおしも立たんそうです――弱りましたなあ」
 支店長は大阪府下の家族のところから電報が来て帰る途中なのであった。広島へ引かえすにしても、岡山までの汽車さえ、キャバレー主人の乗ったのが最後で不通になってしまった。
「明石まで何とかしてゆけばいいんですね」
「そうどす、明朝トラックを心配して貰うことにしました。もし何やったら、おとなりの兵たいさんがたをのせて上げてもよろしいから。――そのトラックが、果して明石まで行けるやどうやしら。加古川辺が大浸水だそうです」
 いよいよとなれば、途中で泊りながら明石まで歩くしかないとなった。それにしても天候が不安定であった。晴れたり降ったりしていた雨は夜に入って、本降りになって来た。その中を、昼間の若い者が支店長宅からと云って迎えに来た。
「おさしつかえなかったら、今晩はお泊りやすようにということであります」
 ともかく、と云って伴れが出て行ってしばらくすると、停電になった。真暗闇で坐っている耳に、裏の篠笹山をそよがして横なぐりの豪雨が降りかかるのがきこえ、はげしくガラス戸が鳴った。部屋の中に雨洩りがはじまった。畳におちる滴の重い柔かい音がする。ややしばらくして、階段をのぼって来る影法師を大きくうしろの壁に写しながら、かみさんが燈明皿をもって来た。そして、どの部屋へもいくらか間接の明りが行くように、廊下の本箱の上にそれをおいた。ひろ子の部屋の雨もりに、大盥がもちこまれた。
 ひろ子は、また昨夜の女客の室へ入れてもらった。同じ布団の中で自分の鼻に馴れない化粧料の匂いを感じながらうとうとしかけると、この天井からも雨がもりはじめた。
「まあ、どないしましょう! 眠られしやへんわ」
「大丈夫よ。この雨では、伴れの方、帰らないでしょうから自分のところへ行きますから。そっち側へずっとよって、布団の端を折ればおねられになりますよ」
「そうどっしゃろか」
「すこしなんですもの、まだ……」
 横なぐりの豪雨はいくらかしずまった。が、大盥にしたたる雨洩りは、暗い室の中で繁くきこえている。ひろ子は、足さぐりで畳のしめっていない床の間よりの一隅を見つけた。廊下に出してあった布団をもって来て、そこにのべた。
 ほかの部屋では、早い宵の口から眠れもせず、廊下に向った唐紙をあけて燈明の灯の暗い明るみの中に寝そべりながら喋っている。やがて、隣室の復員兵の一人が唄をうたいはじめた。おそらく頭の下に両手をかって仰向き、膝立てした脚を重ねて、朝鮮の兵舎の草原でもそうやって唄ったのだろう。今雨もりのする、列車不通の姫路の宿の暗がりで、その男は、次から次へと、いろいろの唄をうたった。レコード覚えの流行唄ではなくて、何々音頭、何々甚句という種類の唄である。
 廊下の燈明の、弱い黄色い光が襖の立て合わせから、ひろ子の布団の裾にさしこんでいる。たいして声がいいというのではなかったが、唄に心をいれて唄っているその気分が、聴くものをうるさがらせず、ひきつけた。おっつぁんがときどき、陽気に景気づけようとして、手拍子を入れたり、口三味線で合の手をいれたりしている。佐渡おけさのときは、五人の一行がみんなで唄った。
「――これに替歌があるんだぜ、知ってるかい」
 そう云って、また、その男が一人で、別のうたを唄った。一時間の上、そうやってうたっていた。兵隊らしい猥褻《わいせつ》なうたはひとつも出なかった。ひろ子は、うたの終らないうちに眠ってしまった。

        十七

 きょうこそ、どうしてもここを出発する。そう思って、ひろ子は十一日の七時前に床をはなれ、布団を片づけた。二階の廊下から見ると、豪雨の翌朝らしい秋空が、碧《あお》く篠笹山の上に輝いた。しかし、空模様は不安で、西の方には煤色の雲がよどんでいる。
「さあ、きょうは出かけるぞ」
 隣室の一行も、金具の音を立てて荷物のしまつを始めている。
「おい、早く飯にしてくれるように、おばさんに云って来い」
 顔洗いのついでに、ひろ子は、東京までの弁当も勘定に入れた分量の米をもって下りた。入口から細長く土間のつづいた関西風の台所に、宿の嫁さんと娘とが素人めいたとりなしで働いている。小さな竈《かまど》で、小さな釜で、一行ずつの飯を別々にたいているのであった。
 けさ、出発することを話し、食事も早くするようにたのんで、ひろ子は室に戻った。そして、リュックの中を整理しているところへ、支店長が、艶のいい顔色で帰って来た。
「やあ、どうも、昨夜は失礼しました。私はおかげさんで、立派な夜具にねかせてもらってぐっすり眠って大助りしましたが……」
 まだそこに置かれている大盥に目をとめた。
「こんなに洩ったんですか」
「ええ。夜じゅう、電燈なしだったし。あっちへ泊っていらして、却ってこちらもよかったわ。ところで、トラック、どういう工合です?」
「ああ、トラック」
 なぜか、支店長はかすかにあわてた。
「我々が店まで行けば、すぐ何とかすることになっています」
「じゃあ、早く御飯たべなくちゃ」
「ああ、私はもうすんで来たですよ」
「それじゃ、なお大変だわ。下じゃ、一部屋ずつの御飯を別々にたいている始末なんですから……」
 台所へ下りて見た。五つばかりの孫娘がおき出して、甘えながら何かせびっている。野菜売りの女が来ている。その土間の隅で、ひろ子の分の飯はやっとふきはじめたところである。
「御飯が出来るまでに、すっかり仕度してしまいましょう」
 三十分ばかりすると、若い者が、支店長の荷物とひろ子のリュックとを自転車にのせて店まで運んだ。
 ひろ子は自分で、炊き上った飯を釜ごと二階へもち上った。急いで、食べ、あつい飯を二つの茶碗の間でころがし丸めて、握り飯をこしらえた。
 勘定をはらって、雨こそあがったが、まだ十分晴天にもなり切っていない往来へ出た。橋の手前の横通りの出水はもうひいていた。白鷺城の濠に沿ってた大通りは、今朝も森閑として、長雨に洗い出されたかたい小石がちのひろい路が、清潔に寂しく通っている。
 第一建物の店で、トラックの心配が出来るというのも、明石の手前が通れないというのなら現実性のないことである。結局、十一時に姫路を出て加古川までゆく汽車にのることとなった。
 加古川から明石まで歩くとすれば七里あった。
「どうです、奥さんに七里歩けますか」
「七里はとても駄目ですね。――けれどもね、あなたは大阪までだから、明石まで七里、元気を出して一日にお歩けなさるでしょう。先へ行って下すって本当に結構です。おかげさまでどんなにかたすかったのですもの」
 列車がひどくおくれているのに気をもみ、しきりに線路の前方をのぞきながら、善良な支店長は、更に一層明石までの道のりが、ひろ子に歩けそうもないことを苦にした。
「折角、愉快に道づれになってもろうて、途中で妙なことせたら、寝ざめ悪うてかないませんよ」
「そういう風にお思いにならないでいいのよ。折角気もちよく道づれになったんだから、これから先は私の足相応に、あなたはあなたの足の力で、お帰りになっていいんですよ。全くそうよ。愉快な道づれが、しまいにお互の荷厄介になるのは、こういうとき、つまらない遠慮でやりかたを間違えるからですよ」

 加古川の駅でみんな汽車からおろされた。不安な顔つきを揃えて改札口を流れ出た旅客の群は駅前の広場にトラックが二台待機しているのを見て、歓声をあげた。
「まあ、よかったこと!」
 ひろ子も、しんからうれしかった。明石まで一人で歩くということは、云うよりもはるかに辛いことなのであった。
 二台ともマル通のトラックで、加古川の青年たちが、旅客整理に出ていた。三列で十人。三十人一組一台のトラックに割当てて、二円ずつの料金をあつめた。秩序のあるそのやりかたも、皆を満足させた。
「のこった方は、すぐひきかえしでお送りします」
 ひろ子らは、二台目のトラックにのった。加古川の駅前は、船が通るほどの浸水だったと姫路にはつたわっている。それほど水の出た気配もない古い宿場町をぬけて、トラックは左右に明るく展望のある一本の国道へ出た。これで、明石まで行けるのかと、料金のやすさを怪訝《けげん》に思い浮べているとき、トラックは、急に速力をおとして、畑の横に停った。
「どなたも、このトラックはここまでです。先はまた別に連絡があります」
「なーんだ」
 がっかりして云うものがある。
「何丁ぐらい歩くのかね」
「二三町です、橋が一つ落ちているだけなんですから」
 先の連絡におくれまいとして、旅客たちは我がちにいそいで歩きはじめた。小さいが、流れの急な川のところで、石橋が落ちていた。棒杙と、横板、俵などで、あぶなっかしく一時の足がかりが出来ている。一区ぎりずつ区切って、こちらからゆくものが渡り、あちらからの通行人がわたる仕組みにしてある。郵便配達が、赤塗の自転車をかついで、用心しながら、こちらへこして来た。ジープが二台むこう側に止って、車と車との間で声高に喋りながら、種々様々の風体をし、しかもどれ一つとしてまとまった服装をしているもののない日本人が、ありとあらゆる荷物をかついで、落ちた橋をぎごちなくわたって往復している光景を眺めている。
 次のトラック連絡は、やや混乱して、四人一列のところだの、三人一列のところだのが出来た。整理員が、ここでは不馴れなのであった。
 ひろ子は、踏台としておかれている空箱からトラックの床に片膝をつき、やっと這い上った。街道のこのあたりへかかると、ぽつぽつ遠い路を歩いて来たらしい人の群にすれちがいはじめた。ひろ子が、立って揺られているすぐ前に、運転手台の屋根にむこう向きに並んで、ぴったりより添って立っている若い一組があった。女は、ふわふわと髪の房をたらし、軽い水色の絹糸のスウェターに、踵の高い、旅行向きでないエナメル靴をはいている。無帽の青年の方は、新しい秋の背広で、二人でおもやいらしいスーツ・ケースを足許においていた。いかにもあやうげな一組ではあるけれど、若い二人は、大勢かたまった人群の真中で、全く自分たちきりのこころもちでいる。向い風がひどく、青年は自分の上衣をぬいで女の肩にかけてやった。娘は片手で、喉の前にその上着を抑え、青年は娘の腰に腕をまわし、二人きりの世界のようにがんこに前方だけ見て揺れてゆく。ひろ子は、トラックの上で小さいふくさ[#「ふくさ」に傍点]を出し、髪の毛が吹きちらされる頭を結えた。
 このトラック道中は僅か十分足らずで、道路崩壊のためにまた途切れた。二里たっぷり歩かなければ、次の連絡がない。そう分って、旅客たちは不機嫌になった。
「あれっくらい、二日もありゃ直せちまうじゃないか、馬鹿馬鹿しい。土台、不親切だ。乗せるときにゃ、まるで先のことを教えないで、乗せと
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