るのはその橋で、鉄橋がここで落ちているのであった。
 やっと三原の町へ入った。どこもかしこも町のそとと同じように暗い。四辻で、つれが、雨傘からしずくを垂らしながら立ち止った。
「えらいすんませんが、右手に活動小屋が見えませんやろか」
「ああ、それらしいものがあります」
「白いような建物でしょうか」
 すかしてみて、ひろ子は、
「そうらしいわ。――アーチみたいなものがついていますよ」
と云った。
「じゃいよいよ来ました。ついそこです。こっちだったと思うが……」
 うろ覚えの街角の一つを、さぐるように先立ってまがった。ガラスから灯のもれているところを見つけて、つれは、番地と姓名を云ってたずねた。
「ああ、そうでしたか。すんませんでした――こっちです」
 さらに露路に入った。関西風な表格子のはまった人家が左右に建てこんでいる。急にバシャバシャと水がひろ子の女学生靴へ入った。その露路一帯、くるぶしほどの深さに浸水していた。水かさが一歩ごとにますようでこの先へ行くのは不安になったとき、つれの男は、一つの狭い入口の前で止った。
「多分ここでしょう……村川みきと書いてありませんか?」
「――標札あるのかしら。――暗くて見えませんよ」
「いや、ここでしょう」
 確信ありげに声をかけて、土間に入ったつれの男を認めて、
「まあ! 支店長はん」
 五十がらみの単衣をきた女が、一目で見とおせる次の間の茶箪笥の前から、とりいそいで立って来た。
「どうおしやして……今頃……でも、まあ御無事で……お珍しい。さアさアお上りやしておくれやす」
「さあ、どうか奥さん、ちっとも御遠慮はいりませんから」
 一間に三間ほどのその土間までは水が入って来ていなかった。直接ひろ子に向っては用心ぶかく口を利かず、目はしだけを働かしている細君に向って、つれは、道づれとしてひろ子をひき合わせ、泊ったことのあるらしい旅館の名を云って世話をたのんだ。
「何しろ、みんな、ここのところ歩きやはりましょう、六時ごろにはどこももう満員どすわ」
 濡れしおたれて、きしむ靴をやっとぬぎ、もんぺをぬぎ、今晩はここに泊めて貰うことになった。支店長、支店長と云って、女は、その男の靴下を干し、ぬれたシャツを土間の竿にかけた。が、ひろ子に向っては、雨水のたれるもんぺを、そこの竿にかけろ、と云うこともしない。寧ろつれの男が、ひろ子に向って、主婦の云うべきことを云った。
 それは二間だけの家であった。永年のつましさと世間ていに対する神経とが入るなり感じられる様子であった。話のはこび工合から、ひろ子はつれの男を、月掛無尽会社か何かそういう種類の会社の支店長であり、女はその部下の女集金人と判断した。工場へ出ているという二十四五の息子も帰って来た。女手一本でどうやら嫁入りさせたばかりという娘の噂が出た。
 ひろ子は、急用で東京へ是非ともかえらなければならない者として自分を紹介した。質素ななりをして、札びらを切るような風もないひろ子に対して、浮世しのぎに肉のつく暇もなかったらしい細君が冷淡なのを、ひろ子は、当然なことと思った。須波、三原間の徒歩連絡がはじまってから三原の町には毎日一万から二万の旅客が停滞した。空襲をうけなかった三原の町は、呉やそのほか大きい町々の買出し場所であった。その上、水が出てからは毎晩、一人二人ひとを泊めていない家はないとのことだった。そうきけば、須波の駅から崖をよじのぼって人家の裏道へ出たとき、いち早くくりのこされた雨戸から洩れる燈火に黒く群れ、頻りに家内の女と交渉している復員兵たちがあった。

 一番の汽車に間に合うように三原の駅へ来て、ひろ子は、ともかく昨夜女集金人の家に泊れたことをよろこんだ。小さい田舎の駅でしかない三原は、構内の広場から往来まで旅客で溢れ、まだ降りつづいている早朝の雨の中に、泥濘をこねかえしている。ひろ子が、そこで夜明しが出来るだろうと思っていた駅の待合室の中は、ぎっしり詰った人々が立っているさえようようの有様であった。ベンチなどは、群集と荷物の下に埋められて、ひとわたり見まわすひろ子の目にさえ入らなかった。乗りこんだ列車は構内の群集のすさまじさの割に案外すいていた。昨夜十一時すぎに三原を発車する予定だった列車が、とうとう動かず今朝までそこにいたのであった。四人一組の復員兵たちが、飯盒《はんごう》で炊いた飯を、はしゃぎながら食べていた。
 ひろ子は、まだ濡れて重いもんぺをぬいで窓のわきの物かけ金具にかけ、ズクズクの女学生靴もぬいで、座席の上に坐った。
「大分ぬれましたね、どこまでです?」
 兵士のひとりがたずねた。
「東京までかえるんですが――この汽車、動くのかしら」
「さあ、そいつあ、神様ばかりが御存じだ」
 洋酒の名も知っていてダンスもするという顔立ちに無精髭の生えたその兵士が、襟元をはだけたなりで皮肉に笑った。
「何しろ、ゆうべ動いた筈のところが御覧のとおりなんですからね――やれ、やれ、人間万事しんぼうが大切さ」
 ところが、思いがけず定刻の六時半に、その列車は三原駅を出た。
「出ましたよ!」
 支店長は、しんからうれしそうな笑顔になって上体をのり出した。
「これでよろし。――大分運のええ方や。――これでよし、と」
 彼は大阪まで帰りつけばよいのであった。安心して、座席へもたれこみ、素人目では異常の分らない両眼をとじた。
 ひろ子のこころは一途に東京に向っていた。その途中でおこって来るいろいろなこと、たとえば昨夜、見も知らない女集金人のうちへ泊めて貰ったというようなことも、大して苦にならなかった。ひろ子が一途なこころもちだから、そうであるばかりでなくその頃の日本にまともな旅行というものが無かったのであった。
 列車が岡山にさしかかる前後から、沿線の風景はただごとではなくなって来た。徐行しはじめた列車の左右は広大な浸水地帯であった。既に何日間も動かない水の下になっている田圃から、一粒の実もはらんでいない稲が、白穂となって悲しく突たっていた。白穂は水面に立って、薄《すすき》のように風にそよぎ、細雨に空しくゆれている。水の中に、農家が点在して見えた。それらの農家と農家との間には、小舟ででも通行するしかない水の深さに見えた。少し山よりの高みでは、重吉の家でもそうだったように家のめぐりに、ありとあらゆるべた土まびれの家財が運び出されていた。運び出されたままきょうの雨に濡れている。
 物音一つしなかった。一望濁水に浸されて人影のない風物は、住民の絶望の深さを語った。
 両手をしぼるように握り合わせ、窓外の景色から目を離せずにいるひろ子をのせて、列車は一時不時停車をし、それからは最徐行で進んだ。線路が全く水の下になってしまっているのであった。
 進行する列車の車輪の下から、大きい水しぶきがあがった。ほとばしる水の音は、不安に殺している苦しい息を一時に吐き出すようなボボッ、ボボボという機関車の乱れた排気音に交った。
 どうにか姫路駅まで辿りついた。緊張している乗客たちは、窓から首を出してプラットフォームを通りがかる駅員に、先の模様を訊いていた。ところへ、もうこれから先へは行けないそうだという噂が前部からつたわって来た。みんな立ち上って、騒然となった。その車の外を、若い駅員が、ちっとも親切気のない無関心な声で、
「みんな出て下さい。この列車は先へ行きませんよウ」
 片手で帽子をうしろへずらしながら呼んで通りすぎかけた。すると、ひろ子の向い側の座席にいた四十がらみの痩せぎすの男が、さっと立って、
「おい君! 君!」
 思いがけず野太い、人を服従させつけている者の調子で窓ごしにその駅員をよびとめた。
「そんな誠意のない物の云いかたがあるか! みんな長い旅行で難儀しているんじゃないか。――中へ入って来、そして、説明したまえ」
 あちこちから賛成の声が起った。暗いプラットフォームの屋根の下に停っている上、すべての乗客がざわついて立ち上っているためなお薄暗い車内に、その駅員が入って来た。そして、改めて、
「この列車は、水害のため、姫路止りであります。どなたもお降り下さい」
と告げた。乗客たちが駅員をとりまいた。が、結局、姫路の先の水害故障というのはいつ恢復するのか、どこの地点が故障なのかさえもはっきりしなかった。
「仕様がない、降りましょう」
 背広も、合外套も渋い好みで、スーツ・ケースと大きいボール箱を下げたその男が、今度は新しい道づれに加った。
 雨でよごれたプラットフォームに、覆布をかけた郵便行嚢の高い山がいくつも出来ている。ひろ子が、田原の家で、網走から解放されようとしている重吉のために書いた速達も手紙も、恐らくは、みんなこの湿っぽくて陰気な、いつ発送されるか見とおしもない郵便物の山につっこまれているのだろう。
 プラットフォームは大体もとのままであった。が、駅舎から全市街の大半が焼かれていた。眼のわるい支店長、ひろ子、新らしい道伴れ、三人は、人群にまじって荒板づくりの仮事務所の前に立った。姫路駅では正確な故障箇所の告知板さえ出してなかった。いつ恢復する見込なのか。そんなことを知る必要もないという駅員の態度である。
「君たち、商売なのにそんなだらしないことってあるものか。鉄道電話は何のためにあるんだ」
「電話なんてあらへんよ、焼けしもうて。――」
 頓馬! というような眼付をして、新しい道づれをジロジロ眺めながら若い駅員は平然と答えた。
「もうとっくに、電信不通や!」
 これでも文句があるか、というように答えて、雨の降っている地べたへ煙草の吸殼を投げすてた。
「――鉄道ラジオ一つないんだから……。外へ出ましょう、こうしていたってきりがない」
 新しい伴れが、警察に宿屋を斡旋させようと提案した。数百人の旅客が、白鷺城跡の見える駅前の仮小舎にかたまって途方にくれた。
 焼跡の大通りを、大分歩いて市庁の建物のあるところへ出た。ジープや大型トラックが、雨水をしぶかせて、城下町の通りを疾駆している。M・P本部の玄関で若い白ヘルメットが、金色の長い睫毛を伏せるようにして日本のヒメジの十月の雨脚を眺めていた。
 三人は警察の大玄関をのぼって行った。背の高い新しい伴れは、「案内」と英語の札が出ているところへ斜に片肱をかけて、用件を話し出した。年輩の巡査が、
「さあ、どうも……お気の毒さまですが、何しろ日に何万という旅客のことでして……」
 うしろを向いて、同僚と何かうち合わせ、いやあすこは、もう入れまい、というような話をした。多くの旅館は、昨今慰安所になっているのだった。
「ひとつ、何とか御配慮願いたいもんですな……」
 片肱をかけて話している伴れは、チョッキのポケットから巻煙草入れを出し、一本ぬいてゆっくり火をつけた。それはいかにも、相手にも、さア一本、と出すことになれている者らしい素ぶりである。全体が酒場の脚高椅子のわきに立っている身ごなしである。ひろ子は、すこしはなれた床の上にリュックをおろしてそれを眺め、好奇心を動かされた。几帳面で、渋ごのみの服装と、その男のどこやら伝法な裏の裏まで知っているとりなしとは不調和なようで、調和している。何を商売とする男なのだろう。
 案内係との交渉が、望みうすなのを見ると、赧ら顔の支店長は、小柄な体を心配そうに動かしながら、誰にともなく、
「この辺に、第一建物会社の事務所ありませんやろか」
と云った。
「もとは、ここのついねき[#「ねき」に傍点]にあったんですが……」
「第一建物会社?」
「その会社やったら、元のところに仮事務所建てています」
 若い女の事務員が、人だすけの出来ることを自分も愉快に思う明るい善良な声で口を挾んだ。
「元のところにありますか!」
 いかにも助かった、という風にききかえした。
「第一建物ですやろ?」
「そうです」
「そやったら、ほんと。元のところです」
「開けてまっしゃろか」
「ええ、事務はとっておられますわ」
 支店長は、あわてて、
「ありがたい、ありがたい」
 リュックを背負いあげた。
「あなたがた、ここ動かん
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