ここへ来て、ほん……」
 たよりないつや子と母との話だけを又伝えにして、直次さんについてはもう諦めていられますと、重吉に書く勇気はひろ子にないのであった。
 それとも、つや子が自身で縫子の夢にきこえた三次《みよし》というところを訪ねて行きたいこころもちだろうか。
「どうする? つや子さん。自分で行かなくても気がすむこと?」
「さア……」
「つや子さんの気がすむ方にしましょうよ、ね」
「……………」
「こんどは、御苦労でも、ひろ子はんに行んで貰おう、いくらかしゃんとした話もせまあじゃ、のう、つや子はん」
「はア、それがよろしうあります」
 相談がきまった。登代が、ねそびれて泣く治郎をおんぶして、駅へ切符の工面に出かけた。
 その母が帰り途にかかったと思われる頃、雨が落ちて来た。
「降って来たね、あした雨かしら、困ったこと」
 縫子も立って来て、小さいパンツの干してある低い軒先から雨脚をみていたが、
「降りよりますで――これは……」
と、土地ものらしい確信で云った。
「お母はんに、傘もっていて上げなきゃ」
「そうだわ」
 ひろ子が土間をさがしたが雨傘らしいものは見当らなかった。
「つや子さん、雨傘どこかしら」
 姿の見えないつや子をさがして呼んでいるひまに、
「その辺に、何ぞありましょう」
 縫子が、大きい膳棚の横から古い番傘を一本とり出し、それをもって迎えに出て行った。

        十

 灰色の雨雲が強い風に吹きたてられて、むら立ちながら山の峯々を南から北へ走っている。
 雲脚が迅く濃くなるたびに、トタン屋根に白いしぶきを立てて沛然《はいぜん》と豪雨が降りそそいだ。大ぶりの最中は、つい近くの山鼻さえ雨に煙った。どっちの道にも朝から人通りが絶えている。
 残暑にあぶられてギラついている東京の焼跡から来たひろ子に、夏の終りのこの大雨は、むしろ快よかった。いかにも、山のすぐあっちには広い海のある場所らしく、たっぷり、惜しげない、雨のふり工合がいい心持であった。
 けさ、四時すぎの汽車にのるはずであったひろ子と縫子は、一旦その時刻におきて、どうする? と相談した。電燈のついている台所の雨樋をむせぶように鳴らして、もうそのときから大降りであった。
「どうなろういの、この雨で……」
 治郎をだいて茶の間にねている母が声をかけた。
「日よりみてからのことにすることでありますよ」
 つや子も髪をかきあげながら出て来た。
「駅から二里も歩かんならんのに、この雨では、ほん、せんのうありますわ」
 おそい汽車に、と思っているうちに、十時になり正午になり、午後になって雨は一層ひどくなった。
 縫子は、ひろ子のもんぺのほころびを縫ったり、二人の子供らの腹がけをこしらえたりしてやりながらも、気にして折々雨にかすむ外を見た。
「わたし、かえってまた出直そうかと思うけれど」
「どうしてさ。汽車にものれないのにこの雨を帰れるものか、歩くの?」
「……いて、いいかしら」
「誰にわるいのさ」
「…………」
「そうあれこれ考えないものよ」
「…………」
 小声でそんな短い言葉が交されるとき、母もつや子もそのあたりにはいないのであった。石田へゆくと、挨拶を終る間もなくきっとつや子が、何時の汽車でおかえりますの? ときくんだものと親戚の若い女たちは歎いた。つや子は体が弱いせいか、その体のよわいということに気負けして暮しているせいか、直次のいるときから客ずきでなかった。人の出入りもない今、食事ごしらえも感興なく、その場のしのぎという風にされていた。
 大降りの勢はちっともゆるまず、段々夕方が迫って来た。
「どうで! ほんほん、よう降りよる! つや子はん、また停電なとせんうちに、御飯しまうことで……」
 睡眠の奥にまで雨脚がとおっているような一夜が明けた。
 きのうは大雨の裡に生々していた自然の眺めもちらばっている家々も、きょうは連日の重い雨に濡れふやけて、力なく、ぼんやり色が流れて見える。
 ひろ子が二階で、雨のふりこまない西側の窓から線路の方を見ていると、母があがって来た。ひろ子と並んで線路、その先の竹藪、山裾へと視線をやった。真面目に気づかわしげにその方角をみた。その竹藪のかげに水無瀬川の、大きい河床がかくされているのであった。
 六七年前の梅雨時分、ひろ子が来ていたとき、やはり雨がつづいた。刈りのこされた麦が、みんな黒穂にくさって、この窓から見わたすと、河床からあふれて麦畑を浸した大水が幾日も鈍く光った。黒いくさった麦の穂先だけが、その鉛色に光る水の上にそよいでいた。
「ほん、大難儀いのう。山の方で、みんな樹を伐らせよって、おまけに、根っこまで掘りおこしたから、水のとめどがないようになりよった」
「こんどは、いいあんばいにまだ、あっちの畑まで水が出ておりませんね」
「それで結構でありますよ」
 石田の家は、街道に沿って埋立てたせまい三角地の上に窮屈に建て増し、建て増しされた家であった。廊下の中に庇合《ひあ》わいなどがあった。こんなに降ると、仏壇のおいてある戸棚の中が大もりになって、バシャバシャしぶいた。家じゅうそこここに、盥《たらい》、バケツがもち出された。昭夫と治郎とは、その盥をめぐり、バケツのまわりをかけまわっている。子供の叫び声と吹きつけられる大雨のザッ、ザザッという天地いっぱいの音をきいていると、ひろ子は子供時代を思い出した。大雨のときうちの中はいつもうす暗かった。すこしずつすかした雨戸の間から雨がふりこんで古い廊下がぬれていた。ひろ子と二人の弟たちとは、小さい三つの顔を一つずつ雨戸のすき間から覗けて、誰が一番長く雨に顔をたたかれて平気でいられるか、競争をした。それから、濡れている廊下を片足ですべった。昼間の薄ぐらさ、ひどい大雨の音。むし暑さ。それらは、稚いひろ子を興奮させ、どきつかせた。子供らのおまる[#「おまる」に傍点]のわきに、夜じゅう豆ランプがついていて、いつもぼーっと雨戸についた地震戸の棧を照していた。
 今にも消えそうで消えない電燈の下で、落付かない夕飯を終った。
 八時すぎになって、前の沢田へふるい[#「ふるい」に傍点]をかえして貰いに行ったつや子が、傘をたたみながら、あわただしく入って来た。
「おばあちゃん、川がおごりよりますて」
 おこったように、登代が、
「どうしょうぞ!」
と云った。
「二十年も水がおごるようなことはありゃせんじゃったのに」
「おばあちゃん、去年から、大さわぎしよったじゃありませんか。すっかりものあげて、わたしが来てからもう二度も水がおごりよったのに……」
「どうするの? もし物をうごかすなら、今のうちの方がいいんじゃないのかしら、夜中に騒いだりするといけないから」
 母は、半信半疑の面もちでしきりに雨音に耳を傾けた。
「――いくらか、ゆりたようじゃありますまいか」
「そうかしら」
 ひろ子は、出水に遭った経験が全くなかった。二百十日の颱風で、雨戸をしめた小箱のような一人住みの家の二階がふっとびそうで眠れない思いをしたことはある。けれども、水について、ひろ子はほんとに何にも分らなかった。今の気持だけからいうと、この家にまで浸水しそうに感じられなかった。その感じにしかし、何の根拠がないことも分っている。
 母をかこんで、ひろ子、二人の若い従妹たちが坐っている裏の板じきで、つや子は一人で働き出した。
「子供らをここへねかしたままで、どうなろう」
 登代が術なさそうに立ち上った。
 子供らを一人ずつ抱いて上り、二階に一同の寝具をうつした。降りて来てみると、つや子は物も云わず細い体で一枚一枚畳をめくり上げている。つや子の口をきかない働きかたには、何か体全体で示しているきびしさがあって、特にしげの[#「しげの」に傍点]を、おどおどさせた。
 女手ばかりであげた畳を、台の上につんだ。店の間の畳を、二つの樽に板をわたした上に積みあげられた。
「おばあちゃん、その辺に油の樽があったじゃろ」
 それも片づけられた。タバコ店の方に置かれていた衣裳箱を、縫子と何度にもかいて、高いところへ移した。
 ひろ子は、あぶなっかしく床板ばかりになった敷居の上にもんぺ姿で立って、働いているうちは耳につかなかった雨音が、また一段劇しくなったのをきいていた。すると、台所の方にいたしげの[#「しげの」に傍点]がけたたましく、
「あら! おばさま!」
と叫んだ。
「どうで?」
 登代がいそぎ足でそちらに行った。
「お! はアもう水がはいりよるで!」
 流元の方からうすい電燈の光をうけながら、音も立てず少しばかり水がひたひた入りこんで来ている。それはまるでこの家へだけ、ほんのぽっちりどこかの水があふれて入って来たばかりと云いたげな何気なさである。
 ひろ子は、余りおだやかな目の前のひたひた水を、出水の騒動に結びつけてうけとりかねた。その黒く光る水をぼっと眺めていると、忽ち、小さい昭夫の下駄が浮いて流れ出した。つづいて、土間にあった下駄という下駄がみんな浮き上って流れはじめた。そして、五分経つまいと思う間に土間は脛の高さに水漬りとなった。床へつくまでには、三寸ほどゆとりがあった。
 水嵩にばかり気をとられていた四人の女が、ふと気付いたとき、雨音はさっきよりおとなしくなっていた。
 ひろ子が楽観したように、
「大体この位ですむんじゃないのかしら」
と云った。
「そうなら大助かりじゃがのう」
 それぎり、水は高まって来なかった。シャツ一枚に猿股で沢田の主人が、往来越しにざぶざぶ水をこいで土間に入って来た。
「えらいことになりよりましたのう。早、畳あげてでありましたか。それはよかった。何でも手ごうしに来ますけに、心配はいりませんで」
 この人は永年石田の前に住んでいる鍛冶やで、整備兵に行っていた二男も先頃帰って来ているのであった。
「どうでありましょうの、堰《せき》は切れよってでありますか」
「――今年はどうですこし様子がちがいよりますのう――じゃまた」
 ひろ子たちは、二階へ七輪とやかん[#「やかん」に傍点]と茶碗かごをもって上った。
「さあ、まあ一息せにゃ」
 はったい[#「はったい」に傍点]粉をかいた。
「おお、そうじゃ、燈心はどこにあったかいの」
「上の棚でありましょう」
「きっと今に停電しよるで」
 縫子が下へ行って、燈心と油と皿をもって来た。
「少し水がひきよってでありますよ」
「お母さん、横におなりませ」
 ひろ子が土地言葉で云った。
「もう大丈夫らしいから。あとは気をつけますから」
「みんなも、おやすみ……どれ」
 母は、着たままころりとしき並べた布団の端に横になった。
「ほん、ここはようない土地じゃのう」
 つや子も、スカートのまま二人の子供たちのわきに体をのばした。
 そのとき、電燈が消えた。
 縫子が見つけてもって上っていた蝋燭《ろうそく》に火をつけた。大きい影が、人々の横になっている枕もとの壁に映ってゆれた。帰れなくなって気の毒だけれども、縫子がいてよかった。ただ、一人の手がふえているというばかりでなく、ひろ子はこころもちの上でたすかっているところがあるのであった。
 雨はそのまま小ぶりになった。ひろ子も寝間着にかえて床の上に両脚をのばしていると、階下で水をこいで来る人の気配がし、階段の下まで来て、
「おごうはん、おごうはん。もうおよってでありますか」
 女の声がした。
「沢田のおばさんで」
 縫子が、上り口の襖をあけて顔を出した。
「おお縫子はん。水がさっきからおごりよりますで」
 その声でむっくり、母とつや子がおき上った。
「どれ、ほんに、まあ、せんないこといのう」
 つや子は、来合わせてくれた沢田の主人と息子にたのんで、一旦高いところへうつした衣裳箱を、今度は二階へあげて貰いはじめた。息も入れず、木の衣裳箱、次にトランク、それから行李、箪笥の引出しと、あげさせる。
 その手をあけさせないさしずの間に素早く、
「えろうすみませんが、ちょいと置かしてつかアせ」
と沢田の家の深く大きい壺もかき上げられた。それには麦、米、粉が
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