場云々をかざしながら、片手はその扉にかけて、あける気があるふりをして見せるとは。ひろ子は、自分の涙さえ、これについては流すまいと決心した。それほど憤りに燃えた。
 この時分から重吉の、しん底からの人間らしさが、やっと本当にひろ子の身と心にしみ入った。二人で暮した期間が余り短かかったのと、重吉の活動に直接加わっていなかったのとで、別れて暮すようになってからひろ子は重吉に対して、いくらか具体性のとぼしい、そのくせ子供めいた敬意をもちつづけて来た。けれども、重吉が、買いものなんかして置くがいいよ、と、おだやかに、ひろ子を惑乱させないようにと心をくばりながらつたえたとき、重吉の体は、あんなに大きくなって面会窓から溢れ出すように見えた。ひろ子の目にだけ、そう見えたのだと決して思えなかった。そこには、重吉の思いも横溢していたのであった。だのに、それがむごたらしくはぐらかされたとき、重吉はあれほど自然だった大きい横溢を収拾して、新しい事情に立った。ひろ子の心情をも支えて立った。その体温が自分の皮膚にもつたわる良人としての重吉を、この時ほどひろ子が瑞々《みずみず》しく、そしてひしと感じたことはなかった
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