が響いている。
今度来て、ひろ子はそのことに気づいた。これまでもつや子は、おばあちゃん、又、おばあちゃんと、一日じゅう細かになかなかよく母を動かした。ひろ子は、冗談めかして、つやちゃんは甘ったれてよく働かせるのね、と云ったことがあった。まだ若いから、何いうてもたよりないのでありましょう。登代は気をよく説明していた。その頃の呼びかたは、同じおばあちゃんにしても、ちゃんというところに小猫のからむような甘みがあり、母の気質にとっては、そういう絡まりも快よいのであろうと思ってきいた。
おばあちゃんという、軟い名をこわく呼んでいるいまのつや子も、呼ばれる母の身も、ひろ子にとっては気の毒にたえなかった。
昔、ひろ子が駒沢の方に住んでいたとき、低い竹の四つ目垣越しに隣家の菜園があって、その奥に住居の縁側が見えた。一人のおじいさんがそこに住んでいた。嫁に当るひとが、おじいちゃん何々ですよ。おじいちゃん、こうですよと、日に幾度となく呼んだ。その声は、明るい午後ひろ子が机に向っている反対側の室まで手にとるようにきこえて来た。その時分ひろ子は石榴《ざくろ》の樹と、子供の土俵あとのある庭に向って小説を書いていた。そして、折々その声にじっと耳を傾け、あの声に愛があると云えるだろうかと思った。一日に呼ぶ度数が多ければ多いだけ、それは単調な生活の倦怠の中に抑えられた女心の苛だたしさをひろ子の心につたえたのであった。
つや子の嫁入りの晩、ひろ子はその田舎町の料亭の座敷で、母のとなりに坐った。高島田に結び、角かくしをし、六月初旬に冬ものの黒い裾模様を長くひいて、仲人に片手をひかれた花嫁が立ちあらわれたとき、ひろ子は何とも云えない恐縮な思いがして、単衣の紋付の下に汗をかいた。角かくしの重い首をうなだれて入って来た花嫁に先立って、いくつもの箱を重ねた島台が恭々《うやうや》しく運ばれた。それは、花嫁からの土産であった。精一杯身を飾り、土産の品までもさし出して、見知らない石田の家の嫁になって来た若い一人の女の運命に対して、ひろ子は習慣の力のつよさというものに威怖を覚えた。
となりの室におかれた古いレコードが高砂やを謡っている間に盃がとりかわされ、記念写真が、同じ部屋で撮された。北支から帰還して二十日ほどたったばかりだった直次は、これも冬ものの黒羽二重の紋付に仙台平の袴で、汗にまびれながらも美しい若者ぶりであった。写真をとるというとき、足が痺れて立ち上ったまま動けなくなった。ひろ子は、いそいでそこにあった椅子にかけさせた。写すときは、その椅子に花嫁がかけて、仲人であって同時に写真師でもある人がその裾の工合を直したりした。直次の婚礼の次第には生真面目さとともに田舎の町らしい一種のユーモアがあった。
一年後、直次に二度目の召集が来た。
その見送りにひろ子が来たとき、もう昭夫が生れていて、つや子のおかあはんが、おばあちゃんにかわっていた。話のはずみにふとつや子が、婚礼の記念写真のとき直次が動けなかったので、どうやら足が悪うなっているのではないかと思いよりました、と云って笑った。
「それどころか立派な脚があったでしょう」
ひろ子も笑ったが、つのかくしのかげに伏ったままのようにあったつや子の睫毛《まつげ》の下から、ほんの一刹那のそのことが見のがされていなかったのにおどろいた。花嫁の神経の働き工合が察しられた。
ひろ子のこころもちでみると、重吉の母は、下駄のうしろを引きずって歩くつや子に、こわばった調子でおばあちゃん、おばあちゃんと呼び立てられ、二人の孫をからませられるにふさわしい人ではなかった。ものわかりのよい姑《しゅうとめ》であろうとする登代の忍耐と努力。二人の子もちだというところから出る体の弱いつや子の落つきかた。
重吉は、どう話されたら、このような生活の細部の感情までを理解するだろうか。
窓から見ていると、治郎を紐でおんぶした母が、堤をのぼって新道へ出て行った。永年子供をおぶったりしたことのない小肥りな母の背中におんぶの形はちっともなじまず、それを見るひろ子の目を悲しませた。このこころもちを、重吉は、どう話されたら分るだろう。重吉はすべてを知らなければならない。ひろ子はそう思った。母とつや子と二人の幼い息子たちの生活のネジをまき直し、幸福をとり戻すために、重吉は必要なすべてのことを理解しなければならない。何故なら、母やつや子にいるものは、その一声によって自分たちの感情の整理までをして来た男の言葉、男のさしずである。しかし、その男がなくなったとき、女はどうしたらいいのだろう。女たちは習慣をかえなければならない。女だけでやってゆけることを学ばなければならない。しかもこの際、母とつや子が、その新しい必要を理解するために必要なさしず、言葉は重吉からしか期待され
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