と何かがころがる音がした。
「昭ちゃん!」
 思わず怒ったつや子の声になった。
「どうして、お前、そう云うことをきかんの?」
 お父ちゃんに云いつけますよ、とおきまりに結んで来たとしか思えない言葉じりを、つや子はそのまま途切れさせた。溜息でもついている風であった。やがて、気力も張りもない、すてたような調子で、
「母さんはもうしらん」
 つまらなそうに歩いてどこかへゆく跫音《あしおと》がした。そのまま台所はひっそりした。あとには昭夫が一人で、すきなだけ板じきをちらかして、はったい粉をたべているのだろう。
 上目づかいの癖がある小さい昭夫は、食事のときも、
「くわん」
 そう云ったきり、一旦とりあげた箸を粗暴に食卓の上に投げ出した。
「どうで! 昼もようたべんと」
 登代が気づかって、顔色のよくない、きょときょとした昭夫を見た。
「治郎ちゃんを見い。ようたべちょる。さあ兄ちゃんじゃけ、昭夫もお行儀ようにせにゃ、東京のおばちゃんが、もうお土産もって来てやらんといの」
 昭夫は、ひろ子を見あげて、にやっと笑った。
「さあ、お汁かけて。ほん、美味《うま》そうなじゃあろが」
 昭夫は、自分の前に豆腐の澄汁をかけた、茶碗がすえられきるまでじっと見ていて、又、
「くわん!」
とくりかえした。
「いもがええ」
 それ助かった、という風に祖母と母親とが、
「何で、そんなら早うそう云わんのじゃろ」
と蠅入らずから、ふかした薯の皿をその前へ出してやるのであった。
 ひろ子が最後に来たとき、昭夫は生れて百日たったばかりの赤子だった。亡くなったお祖父ちゃんに似た色黒い面白い赤坊で、ちょこなんと抱いてとった写真を重吉のところへも送った。自分に子のないひろ子は、甥姪たちに特別な情愛を動かされ、注意をひかれるのであった。台所の蠅入らずの上に、陰膳をそなえていたときのまま直次の写真が飾られている。その写真で直次は浴衣がけで、あぐらをくんでいる。ゆったりと大きいあぐらのなかに、今よりずっと稚い頃の昭夫がまるっこく抱かれて、赤子のぽちゃぽちゃした顔に、可愛く眼、鼻、口をつけて、こっちを見ている。直次は、若い父親らしい表情で、口元をゆるめてとられているのであった。
 しんみりとその写真をみせ、父さんについて語り、昭夫の気分を落付かせてやろうと努力する根気もつや子にはないらしかった。日頃体のよわいつや子は、直次のいたときから、何かにつけ、どうせ長う生きられんのだから、と口に出した。
「間食させすぎると、きまったとき御飯たべなくなることよ。顔色のわるいのもそのせいかも知れないよ、十時と三時にきめたら?」
 この辺は、食糧が乏しくはなって来ていても、まだ食事とお八つとを規則だてられる位はたっぷりしていた。つや子は、しかし深くききしめる様子もなく、
「はア」
と答え、
「ほんに、じらばかりいうて……」
 寧ろひろ子への云いわけらしくつぶやいた。癇のきつい昭夫は、その癇を無意識のうちに鎮めてくれる男らしい人間的な圧力や生活の規律が女ばかりの暮しに欠けていることから、とめどなく荒っぽくなっているのであった。母と嫁とは、ほかに男のいない生活で左右から直次をとりかこんで暮して来た。そのように、今は癇のきつい昭夫のまわりを祖母と母とが左右からはさんで近づいては遠のき、一応口先で叱りつけては、あとで一層機嫌をとって暮している。
 横になりながらひろ子は台所の騒ぎをきいていて、中心になる男が奪われた一つの家庭の不幸と生活の破綻というものの複雑なあらわれをしみじみと感じた。戦争の災禍は、この「後家町」で石田の一家の生活の根太を洗った。じかな、むき出しな災禍の作用を現わしている。家財を焼かれた人々の損傷の深さを、ひろ子は東海道、山陽とのった汽車が西へ来るにつれて思いやった。けれども、戦争の真の恨みは、どういう人々のところにこそあるだろう。国体論はかくした方がいいでしょうかと不安げに訊いた片脚の白衣の人の瞳の底にあった。そして、「後家町」の、ここにある。日本じゅう、幾十万ヵ所かに出来た「後家町」の、無言の日々の破綻のうちにある。
 ひろ子のこめかみをすべってつめたく苦い、渋い涙が、籐製の小枕におちた。戦争犯罪人という字句をポツダム宣言の文書のうちによんだとき、ひろ子は、その表現が自分の胸にこれだけの実感をたたえて、うけとられるとは知らなかった。ひろ子は、世界の正義がこの犯罪を真にきびしく、真にゆるすことなく糺弾することを欲した。

        九

「おばあちゃん、おばあちゃん」
 そう呼んでつや子が、母に何か云っている。おばあちゃんというようなよびかたは元来、ふっくりした優しいよびかけであるはずだのに、つや子のそのよび声には、呼ばれたもののこころを誘い出す暖いはずみよりも、押しつけるかたさ
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