。それはこれまでのように地方の発展によって膨脹して町から市になって来た市ではなく、全く軍事的な目的のために、田圃と畑が一躍市につくられた。徳山市からその新造の市まで五里の間、一本の軍用道路が貫通されることになった。その道路は軍用トラック専用のものであり、断乎たるものであり、軍人が地図の上に引いた一本の線のとおりに必ずつくられなければならないものであった。
ひろ子が、四年前一番終りに重吉の家を訪ねたとき、母は、その新道のことを苦にしていた。
「ほん、困りじゃのう、あんた。何でも、ここの軒ぐらいの高いところへ出来るというちょる」
新道のうっとうしさと直次の三番目の召集の不安とが、からみあって語られた。二度目に召集されて入隊し、明朝乗船という前夜、直次は急性盲腸炎にかかって、とりのこされた。
そのとき集められた予備の一隊は、どこか南方へやられた。
せまい往還を荒っぽく日夜突進するバス、トラック、ダットサンの交通は、根太のゆるんだ粗末な重吉の家を朝から夜中まで震動させた。二階から見える線路の上に、兵隊を満載した列車が長い間とまって、町の婦人会の女たちはその兵隊たちに茶や握り飯の接待をした。新しく出来た軍事市は、巨大な工廠を中心としていて、近隣の農村の若い男女、少年たちを総動員した。朝と夕方きまった時刻に、重吉の家の前の往来は、そういう村々からの自転車のりで一杯になった。どのバスにも赤字で憲兵と書いた腕章をつけ長サーベルに長靴の男がのっていた。どこへ行って、どこへ帰る必要があるのか。知っている者はなかったが、いつも憲兵が一人ぐらいは乗っていた。その冬、アメリカとの戦争がはじめられたのであった。
こんど来たひろ子が、二階の東窓をあけてみると、母が苦にした軍用道路は、裏の無花果《いちじく》の梢に手のとどくぐらいの高さで完成されていた。溝川一つへだてて、辛うじて重吉の家はそのままのこされたが、麦畑はつぶされ、その先の田圃も埋立てられ、その畑をつくっていた一軒の家は、在ったところをずっと山際よりに引こんだ。新道は、軍人が地図の上に引いた一本の線どおり、必ず真直に、断乎として作られなければならなかった。そしてそれは、作られた。直次は必ず応召しなければならなかった。そして、それはそのとおりにされた。
バスは、もう狭いもとの往還の上を走っていなかった。バスは、裏の新道の上も走ってはいなかった。あわただしく作られた軍用市は機能を喪失し、川に沿った上《かみ》、下《しも》の町は、機械的に一本の道路で貫かれているだけで、麻痺に陥った。この五十戸あまりがかたまっている部落に今は新しい名がつけられている。
「後家町」
「後家町」の裏の新道を、工廠の方向から時々トラックが走った。ドラム罐をつんでいるのもあるし、材木を積んでいるのもあり、時には山の方へ疎開させた家財道具が逆もどりして来るトラックもあった。しかし、そのどれもが、直接「後家町」に縁はなかった。何故なら、最後のドサクサの間にうまいことをしてドラム罐をどこかへうつしていたり、工廠用の木材を流用する役得をせしめたりしたのは、みんな、工廠関係の男たちであったから。そういう男たちがいる限り町の名は、「後家町」と呼ばれたりはしないのであるから。
母とつや子とが直次をいたむ口調のうちには、直次さえいたならば、時勢の激変でこぼれ出した利得を、この門口から素通りさせてはおかないものを、という思いがはっきり汲みとれた。
石田の家は、息子三人に父親、働くものも男ばかりという生計であった。その中心に、登代が永年の借金暮しを辛棒し破産をもりかえす才覚で人々におどろかれるような勤勉な明暮れを送って来た。母の才覚、深い計量は、重吉こそ欠けていたが、いつでもそれを実現してゆく男たちの素朴な力のつよい腕や背中をもっていた。直次が亡くなり、進三は現役からひきつづいて濠北からかえされず、さりとて登代の寸法で男たちを集めて働かせる商売そのものが無くなっている現在、登代の活動を愛する生れつきは、在って甲斐ないもののようになった。
少年時代重吉が机をおいて暮していた二階の東窓の下に、ひろ子はくたびれの出た体をよこにしていた。別棟で更に東につき出ている台所で、いきなり四歳の昭夫が、
「いらん! いらん! いらんいうたら、いらん!」
と癇声をふりたててどなっているのがきこえた。同時に、はいている大人下駄で地団太ふむ音がした。
「なにいうてるのよ、昭ちゃん。かたい云うから柔《や》わうにしたんじゃないの、じら[#「じら」に傍点]云わんとたべんさい」
小麦と米を挽き合わせた「はったい粉」をねって、二人の子供らは時をかまわずたべていた。そのねりかたがかたい、軟かすぎると、ひろ子がついて間もなくから昭夫はあたけた。
「いらん!」
ガチャッ
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