なくなっているのであるから。
 濡れているうちは、余り薄くて色らしい色も見えないインクで網走への手紙をかきながら、これから帰るのは重吉であろうか、それとも七年の歳月を前線で経ている進三であろうか、とひろ子は考えた。新聞やラジオは、八月十五日から一ヵ月たったその頃、南方の島々で、ちりぢりばらばらに武装解除をしている日本の部隊名をつたえていた。進三の部隊長が、どうか普通の分別をもった男であるように。ひろ子は切にそれを祈った。敗北の噂をきいて、食物もない山中の獣の穴へ部下を追いこむ愚かものでないように。進三は重吉とまたちがったやりかたで人によろこびを与える若者なのであった。
 母が、いつにもないそっとした様子で梯子をあがって来た。机に向っているひろ子を見て、
「おや、あんた、昼寝してじゃないの」
と云った。
「いいえ。おやすみになる? 枕出しましょうか」
「ええ、ええ」
 言葉をきって、
「縫子はんが来ておってでありますよ」
 低い声で何となしひろ子の顔色を見るように告げた。ひろ子は、奇妙な気がした。従妹の縫子は、ひろ子の東京の小さい世帯に一年半も一緒に暮したし、互に気があっていて、ひろ子がここへ来て縫子が訪ねて来るのは全くあたり前と思えるのであった。
「まあよく来たこと!」
 思わずそう云って立ち上ったとき、ひろ子は、不思議な感じを与えられた小声のしらせのことは忘れた。
 母のあとについて茶の間へ降りてみると、ガラス障子のところで、縫子が一人坐っている。もうよっぽど前から、そこにそうやっていたように、ぼんやりした所在なさをあらわした姿で坐っている。ひろ子は、また奇妙な気がした。
「どうしたの縫ちゃん。いつ頃から来ていたの」
 いぶかしそうに立ったままいきなり訊くひろ子を下から見上げるようにしながら、縫子はもち前の落付いた口調で、
「さア、小一時間も前に来たかしら」
 そして、懐しそうににっこりした。
「知らせがいったの?」
「いいえ。わたしお姉さんが来ておられることなんか、ちっとも知らなんだの。昨夜、直次さんの夢を見て、気にかかってせんないから、一寸しらせに来たら、来ておられるって……」
 縫子は、一里半歩いて、来ているのであった。
 夢で、直次がミヨシというところにいる、という話をしているのをきいた。さめたあとまで、あんまりミヨシという土地の名がはっきり聞えていて忘られないので、近所で旅行案内をかりて地図をみたら、
「不思議でありますねえ」

 縫子はしんから偶然の符合をおどろくように濃い眉を傾けてひろ子を見た。
「ほんにミヨシというところがありました。三次とかくの。芸備線で二時間ほど広島から行ったところに」
「ふーん。そんなことってあるものなのかしら。――そいで、どういうところなの、その三次《みよし》って……」
「病院はありますって」
「陸軍病院?」
「そうじゃないらしいけど……。もしかしたら、わたしつや子はんとつろうて行って見て来ようかと思って」
 黙って熱心にきいていた登代が、
「その三次《みよし》は、つや子はんがしらべに行きよった豊田村とはまるで別の方角のところじゃろ、のう」
「あれは万部線でありましょう」
「の、つや子はん、つや子はん、ちょいときてみさいの」
 ねむりかかった治郎をあぶなっかしくおんぶして、つや子が土間から上って来た。
「のう、あんたが、先度ゆきよったのは豊田村じゃのう」
「はあ」
「そのとき、本部で、三次たらいうところのこと云わなんだか」
「さあ……」
「縫子はんが夢を見たといの、つろうて、さがしに行こうかと云うてじゃよ」
 つや子は、薄すり凹んだ瞼をあげるようにして、縫子からひろ子、母へと視線をうつした。
「本部でも、云うてでありました。鳥取県の三朝《みささ》あたりまで分散治療に送ってあるよって、個人でさがしたら、一年かかってもよう分るまいて……」
 豊田村から又二里近い山下の国民学校に移った本部の残務整理責任者は、つや子に向って、石田直次軽傷と記入されている一冊の帳簿を開いて見せた。又別のもう一冊を出してみせたら、それには、石田直次の項に、行方不明と記載されていたのであった。
 ひろ子は、雲を掴むような話をきくにつけ、自分で一度豊田に行って来ようと決心していた。きのう着いて、つや子と母との話すのをきいているうちその心がきまった。
「じゃ、いっそのこと、こうしましょうか。私は、ともかく一遍どうしても豊田村へ行って調べたいから、明日、縫ちゃん行かない? そして、三次《みよし》のこともよくきいて、もし手がかりがありそうなら、まわって来てしまうわ、いかが?」
「――えらい難儀じゃのう」
 母が気づかわしそうにゆっくり呟いた。
「行ってもろうたら、それにこしたことはないけれど……ほん、東京であんな目えみて、
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