ダラと下ったところに往還が通っていて、向う角の消防ポンプ置場も、つき当りの呉服屋も、もとのままある。ひろ子は、安堵と一緒に哀愁を感じた。この前、ひろ子がこの小さい村の町に来たのは、直次に二度目の召集が来たときであった。ひろ子が駅から歩いてゆくと、ポンプ置場の前に一台、ベルの吊られた赤塗手押ポンプがひき出されていて、屈強な若い男たちがそのまわりにかたまっていた。その中に直次がいた。ひろ子を見つけて黙って笑いながらよって来た。今、そのポンプ置場のあたりも森閑として、人影もない。
ひろ子は、人通りのない狭い往還を北に向って歩み出した。半分ガラス戸のしまった理髪店。雑貨屋。精米所。商売をしていない菓子店。旅人宿。そういう店々が両側に一並び軒を連ねている。ひろ子は人通りこそ一人もないが、見えないどこかからか、往還を歩いてゆく自分の紺絣のもんぺ、さきの丸まっちい女学生靴、リュックに目じるしの赤ビロードの布はしが結びつけてあるのまで、すっかり見られていることを感じながら歩いて行った。
ほんの三四丁で、この往還は出はずれる。そのすこし手前に、重吉の家の土蔵が見えはじめた。土蔵の白壁がすこしはげ落ちている。
ひろ子は、胸がつまって来た。この土蔵の前から往還へ人々と旗とがあふれて、直次の第一回の出征が見送られた。その弟の進三が、母の登代と並んで実直な若者らしい体を正面に向けて入営記念写真をとられたのもこの道の上であった。
タバコ店を出してある方のガラスが閉めきられて、よごれた幕がひいてある。出入口のガラス戸が一枚あいているだけで、その鴨居には、「名誉の家」と木札が出されていた。
「こんにちは――いらっしゃる?」
声をかけながら、ひろ子はそっと店の土間に入って行った。せん来たときは、石炭、豆カス、麦、炭と、俵が積みあげられていた左手の板じきは、奥までがらんと空いている。よごれた柱が幾本も見えて、大きいカンカン量りが、隅っこにおかれている。左官材料のおいてあった反対側の土間もあいていて、脚のもげかかった籐椅子が一脚そこにある。
余り使われている様子もない事務机の端に子供帽子がのっかっている、その店の間も人気なかった。いかにも生活の湧き立つ波はひいたところという寂しさが全身に感じられた。
ひろ子は細長い土間を仕切っている立てつけのわるい障子をあけた。そこは台所であった。土間も流しもとも片づいて、やっぱり人気がない。直次たちがよく床几にかけて賑やかに忙しく朝飯や昼飯をたべていた板張にもんぺの膝を押しつけてひろ子は奥へ声をかけた。
「みなさん、お留守なの?」
一層声を大きく、
「こんちは」
と呼んだ。
「まア!」
ひょこんと、まるでついそこにいたようにつや子が、前会ったときと大して変ってもいない顔を出した。
「いたの? きこえなかって?」
それには答えず、
「まア! ように!」
つや子は、紺ぽいスカートをひるがえして奥へかけこんだ。
「おばあちゃん! おばあちゃん! 東京から見えてですよ」
すぐ、
「まあ、まあ」
と、心からの声をあげながら登代が出て来た。
「今ついて?」
「三時間もおくれてしまったもんで……」
「えらいのに、ほんにまア。さあさあ、お上りませ」
ひろ子の一瞥には、母のやつれの方が著しく映った。活気横溢という日頃の表情は母の顔立ちから消えて、絣の着物の肩がすぼけて見えた。
「直次が。のうあんた、ほんにまア、何と云っていいやら」
「電報ついたでしょうか。わたし速達を頂いた翌日立って来たんだけれど……」
「まだ来ん、のう、つや子はん」
「来ちゃ居りません」
つや子の語調はいやにきっぱりしていて、何か、そういう電報は土台うたれもしないものだと云う風にきこえた。
ひろ子は、母やつや子と話しているうちに悲しみよりも深い寂しさを感じて来た。直次の災難が知らされてから、一ヵ月余も経ち、しかも行方も不明、生死も不明というままに、今日では母も妻であるつや子も、直次を生きていない者としてあきらめて来ている。
驚愕し、混乱しとりとめなく心当りに問い合わせ、さめざめと悲歎する場面も与えられないまま、直次のいない干潟《ひかた》のようになった生活の日々がこの家にのこされた。母とつや子が小さい二人の息子対手に、商売もなく、人気もなくなった家のなかに暮していて、東京から来たひろ子を見たとき、思わずとりすがって愁歎するそういう気持の激しいはずみさえなくしている。
若いつや子が、涙を一杯ためながらも声の調子を変えず、直次をたずね歩いた時の様子を話すのをききながら、毛穴から汗のにじみ出して来るような苦しさを覚えた。ひろ子はこの状態において、あらわれた助力者という感じでうけとられていない自分を痛切に感じたのであった。
母も、つや子も、くりかえし、
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