の云いをした。
「全く、ばかみたいなもんでしたなあ、私なんか、ちょいとした工場をやっていただけなんですが、それで一年も経たないうちに、小三十万儲けたんだから。――ばかみたいなもんでした」
白絹はちっとも皮肉でなくそうくりかえした。
ひろ子の前にいた、これも朝鮮の男が、そのときこわばった胸をひらくように反らして、外を見上げ、ひょいと線路わきの砂利の上へおりた。
途端にガタンとひどい揺れかたをして汽車がすこし動き出した。幾つもの声があわてて、早く乗れ、という意味だろう、朝鮮語でわめいた。とびついて、その男がのりこむと一緒に、汽車は又ゆすぶれて止って、もう動かなくなった。まわりのものが笑った。
そのとき、隣の車室の薄ぐらい陽気な混雑の中から、少女の澄みとおった一つの声が、突然アリランの歌をうたい出した。
[#ここから3字下げ]
アリラーン
アリラーン
アリラーン 越えてゆく…………
[#ここで字下げ終わり]
メロディーをゆったりと、そのメロディーにつれて体のゆれているのも目に浮ぶような我を忘れてうちこんだ声の調子でうたい出した。それにかかわりなく男女の話声は沸騰していて、間に年よりらしい咳や笑声が交る。
うたでしかあらわされない気持のいい、よろこびの心が、暗くて臭い車内から舞い立っているように少女はアリラーンをうたっている。ひろ子は、しんを傾けてその歌をきいた。ひろ子の見ひらかれた瞳に、まだ動かない列車沿いの堤に生えている松が映った。雨の暁方の鈍い鉛色の外気の中で、松の葉が、漸く黒くほそく見わけられた。
雨の中を、ひろ子は小走りに地下道へ馳けこんだ。広島駅でいくらか元の形をとどめてのこっているのは、その地下道だけであった。一望の焦土というのは形容ではなかった。もうそこは、ひろ子が知っていた広島市でもなければ広島駅でもなかった。駅長事務室が、引込線の貨車の中に出来ていた。なまなましい傷の上に、生活が再建されようとしているのである。駅の見当さえつかなくなって、リュックを背負ったひろ子は地下道の右側の段に突立っている少年駅手にきいた。
「これから岩国へ行く汽車は何時に出るんでしょう」
「六時四十分!」
「六時四十分?」
ひろ子は間誤ついてききかえした。三本松で三時間も不時停車した列車は、ついたときに、七時すぎてしまっている。もう出てしまった列車を教えられるという意地わるさが想像されなかったので、ひろ子は、いぶかしそうに、
「六時四十分て――午前?」ときいた。
「六時って云えば、午前だぐらい、ばかでもわかるだろう!」
たった十四五のその少年駅手は左腕がなかった。青服の子供らしく短い片袖が尖った肩から垂直にたれている。片腕のない少年駅手は両脚をはだけて段の上に突立ち、何もかも無くなっている駅で戸惑いながら、ひろ子のように間のぬけた質問をする旅客の一人一人に、復讐的な鋭い悪意の輝いた嘲弄で応酬しているのであった。
壊滅しつくしている市街と駅。そして小さい鬼のような少年駅手。ひろ子は、次の汽車までそこに居たたまれない気がした。また雨の中を馳けて、まだ停っている急行へよじのぼった。
「なあんだ、又のるのかね」
「ええ、岩国まで。――お願いします」
岩国駅で下りて、ひろ子は山裾の方を眺めた。幾条もの線路越しの彼方に遠く生木でこしらえた小屋が一つ見え、そのあたりに駅員の姿がまばらに動いている。ふりかえって、ひろ子は海岸を眺めた。きらめく瀬戸内海の碧さに向って巨大に建て連っていたもとの人絹工場、後の飛行機工場の白い建物や、陸軍燃料廠の棟々は、どこにも見えなかった。地面に大小無数の凸凹穴と、ねじ曲りへし曲げられた鉄骨屑の乱雑な堆積がそこにあった。でこぼこ穴には不潔なたまり水が腐っている。
給水所附近にあるような脚高の板棧道にひろ子のほか数人の旅客が、次の下りを待っていた。目の前に幾台も汽罐車がひっくりかえっていた。車輪を空へ向けてすっかり腹を見せているのや、なぎ倒されたまま顛覆しているのや、焼け爛《ただ》れてとけた鉄骨だけのこった貨車、客車が散乱していた。一台の自動車がふっとばされて来て、妙なごたごたの間に逆立ちして突こんだまま、そこで焦げ、エナメルがむけて錆びはじめている。
雨は小やみとなった。濡れるとも云えない軽い雨脚が、リュックにかかった。その板棧道には列車が停る側にきちんと一定の間隔をおいて、何ヵ所にも人糞が落ちていた。掃除もされず、そのまま雨に半ばとけかかっている。
西へ、西へと来て一夜あけたとき、ひろ子の周囲にあらわれた光景のすべては仮借ないものであった。
七
篠笹の藪と、すこしはなれた高くない山並の間の小駅で降りて、ひろ子は、駅前のひろ場へ出た。
右手に見なれた貨物置場がある。ダラ
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