窓はこわれていてガラスがなかった。
重吉の母の登代が暮している町は、瀬戸内海に沿って、もとは山陽線本線がずっと迂回して通っていた場所にあった。現在の本線は、その北を直線に徳山市へのびている。
東京駅の案内所でしらべたとき、下関行急行は朝の四時すぎ岩国へつく筈であった。そこで、支線にのりかえるのが順序と教えられた。
これまで幾度かその田舎の町へ来たとき、ひろ子は、広島でのりかえるのが習慣であった。待合所の食堂でたべた牡蠣《かき》の香ばしさも、名産レモンの黄色いすがすがしさも忘れていない。しかも、直次の三十四歳の生涯は広島で終らせられた。せまい町筋に大通りが多い広島市街の光景と、海に注ぎ入る河に架っている橋々も目にのこっている。
窓ガラスも電燈もない真暗な汽車の中で、眠ったりさめたりしているうちに、ひろ子は広島でのりかえて見たい気になった。
白絹も、広島でのりつぐのであった。
「どうです、あなたも降りられるんなら、そろそろ出ていましょうか」
通路に寝ひろがっている人々をまたぎ、膝をついてやっと大荷物の上を越し、リュックを背につけたひろ子は出入口のドアのところまで辿りついた。洗面所の中にも、接続板の上にも、ステップにさえ外向きに腰かけて、荷物と人が、女まじりに立ったり、しゃがんだりしてうとうとしているのであった。
夜が白みかけていた。雨降りで、濡れた灰色の外光の中に、つい近くを松林や草堤がぼんやり眠たげにすぎてゆく。
雨は長降りになりそうな降り工合である。
いくらか上り勾配にかかった様子で列車の速力が落ちた。そのうちスーと停ってしまった。
「妙なところで止るじゃないか」
白絹が不安そうに顔を動かして云った。
「広島まで、もう何分ぐらいですかな」
「まだよっぽどだアな。三本松にかかったばかりだから――一時間の余あらあ」
「早く出て来すぎたかな、こりゃあ」
がくん、と汽車は動き出した。徐行して、そろそろ普通の速力を出すかと思う時分、つよい排気の音をたてて又ズルズルそのまま止ってしまった。
「どうしたんだ、故障か。いい加減にしろよ」
白縮のシャツの上から腹巻をした、三十がらみの男が戦闘帽を後へずらしてかぶった頭をつき出して、線路の前方を眺めた。
「三本松じゃ、汽罐車がうしろへもう一台つくんだ。いつもそうだよ」
列車は、松の生えた低い堤の前にとまっていた。土堤《どて》の下草が繁っている。しめっぽい小雨の中へ、二三人男がとび下りて行って小便をした。
列車は、いつになっても動き出す様子がない。ひろ子は肩からリュックをおろして、窮屈な足もとにおいた。白絹も荷物をおろした。
そして時計を出して見た。
「これじゃ仕様がない、もう二時間もおくれちまった」
それに答えるものがなかった。ひろ子に半分、自分の荷物に半分、もたれかかるようにして、こわい真直な髪を真中からわけた朝鮮の若者が立ったまま眠っている。そのうしろに丸まって、腕に顔を伏せている若者も朝鮮人であった。次の車室からそこまで溢れ出している旅客は殆どみんな朝鮮の人たちである。
となりの車室も、電燈がついていず、外界が、ぼんやり白みかけて来ているので一層車内にこもる夜の暗さが濃く深く思える。しかし、その暑苦しい暗闇の中はひどく賑やかであった。
愉快そうに入りまじった男や女の高声がしていて、どの声も喉音や吃音のまじった朝鮮の言葉でしゃべっている。一切の世帯道具をもって、今や独立しようとしている故郷の朝鮮へ引あげてゆく人たちの群である。
こっちの車室は、一様にくたびれ、眠たく朦朧《もうろう》の中に陰気にしずまりかえっている。二輌の車のつぎめに立っているひろ子に、そのちがいは、いかにもきわだって、体の両側から感じられた。朝鮮までの旅と云えば、まだまだ先が長い。気をせくことはいらない。そうにちがいないけれども、その暗闇のうちに充満している陽気さには、何とも云えないのびのび充実した生活の気分があった。この人々は、絶えず何かを食べ、絶えずしゃべり、夜なかじゅうそうして旅行して来ている横溢が感じられるのであった。つよくこころをひきつけられて、ひろ子は精力的な、乱雑ながやがやに耳を傾けた。
薄くらがりでじっと動かないひろ子を居睡りしているものと思って、白絹が声をかけた。
「あぶないですよ、眠られると――」
「ありがとう。――大丈夫です」
白絹が行こうとしている村は芸備沿線にあった。そこに弟の家族が住んでいた。娘のようにしている姪も二人いるのであった。
「私もまあ、運がいい方と見えてこれでどうやら無事に一段落だから、一つ弟んところへ行って少し金でもわけてやろうかと思ったりしましてね」
「本当にね、戦さで儲かったお金には、人の命がかかっているんですものね」
ひろ子も率直なも
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